3人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
「明日1日、ありがとうを最初に言ってから会話してよ。ねぇお願い」
妻が甘えるように言うと、なんのきなしに頷き了承した。これにいったい何の意図があるのか分からないが、そう悪いことでもないだろう。
そして翌朝
「おはよう、もうご飯出来てるわよ」
「ありがとう、あとおはよう。そして、いただきます」
玄関でも
「はいこれ鞄、気をつけて行ってきてね」
「ありがとう、そして行ってきます。なるべく早く帰ってくるよ」
そして夜の食卓でも
「ありがとう、そしてただいま。今日も美味しそうだね」
「おかえりなさい、まだおかずが全部出来ていないから、先にお風呂に入ってきて」
食後のテレビでも
「ありがとう、今日さぁ、上司がバレンタインチョコレートを貰えなくてキレてたよ。男同士でもあげ合わないといけないのかね」
「女子社員がいないのにチョコレートを期待するのはヤバいね。女子社員だって義理チョコをあげたくないのに、男性社員はもっと嫌でしょ」
寝室にて
パジャマに着替えて2人で寝るベッドに横になる。どうして今日、妻はこんなことをさせたのか、改めて考えてみた。
「ありがとう」をただ無意味に言わせる事に何の意味があったのか。最初の方こそ、意味のある「ありがとう」だったが、最後の方なんて会話が不自然になっていた。妻が求めていたのはこんな無意味な「ありがとう」だったのか……いや、そもそも無意味の「ありがとう」すら言ってこなかったんじゃないのか?
思い返してみて苦笑いを浮かべた。ここまでしてもらわないと気づかないなんて夫として失格だな……普段の日常の中でごく当たり前にやってくれていた家事や愚痴の聞き手は感謝するべきことなのに、日常の中に隠れて日常という風景と同化して見えなくなっていた。
もし自分が妻だったら、そんな夫にキレていたか愛想尽かすだろう。こうして教えてくれた妻に愛おしさを感じるのとともに可愛く思えた。
「それじゃあもう寝ましょうか」
妻が自分の隣で横になる。妻に視線を向けてから壁にかかった時計を確認した。
「ありがとう」
0時1分、妻の魔法が終わり、ささやかな言葉が口からもれた。
最初のコメントを投稿しよう!