僕らは朝日に溶けたりしない

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 雨の日は、からだが重い。どうして、こんな日の朝九時に診察の予約を入れたのか。うんざりしたが、二週間前の予約時に、今日の天候がわかるはずもなかった。  午前中に外に出たこと自体、二週間ぶりだ。薬局から一歩踏み出すと、湿った空気が肌にまとわりつく。昼の世界はすでに僕のことなど忘れさり、異物として排除しようとしている。朝早くから、規則正しく働くひとたちを見ていると、そんな被害妄想めいた疎外感さえおぼえる。  コンビニで、今日出た診断書をコピーして帰ろう。月末までに人事課に原本を届けなければ、病気休暇の延長ができない。忘れないうちに控えを取っておきたかった。  コンビニのおどけた入店メロディをききながら、入口脇のコピー機で手早く作業して、そそくさと店を出る。  この店はカップ麺の種類が豊富で、重宝している。もう一軒、自宅から同じくらいの距離に別の店があるけれども、立ち寄るのは、もっぱらこちらだ。  いまのタイミングで夕飯用のカップ麺を買うべきだったと考えついたときには、すでに店から百メートルばかり離れていて、戻る気力はまったく起きなかった。  手痛い失敗に気づいたのは、職場に今日の受診について、一報を入れている最中だった。来月末までの病休となる旨を伝えながら、手元の診断書を確認して、ゾッとした。コピーしたはずの診断書は、なぜか一通しかなかった。  コピー機に原本を置き忘れたのだ。よくある凡ミス。だが、会社内ならばいざ知らず、だれもが利用するコンビニのコピー機に忘れた紙っぺらが、いまも現場に残っている保証はない。  動揺を押し隠して通話を終え、身支度をする。何時間も電話をためらっていたせいで、外はすっかりと暗くなっている。  雨は止んでいなかった。傘を手に、店へと走った。緩い坂を駆けのぼり、ほんの数秒で息があがりきった。太ももの痛みに、日頃の運動不足を呪う。ふた月も家に籠もっていれば、当然の帰結ではあるが、高校時代にはバスケ部のエースだった人間とも思えない体たらくだ。  コンビニの入店メロディをへろへろになりながら聞いて、コピー機の蓋を開け、レジカウンターをふりかえる。 「──何かお探しですか」  聞こえたのは、少し低めの女性の声だった。 「実は忘れ物をしてしまって」  店員は僕の目を見て、にこりと笑った。声質のわりに小柄だ。二十代前半、もしかしたら、大人びた十代かもしれない。吊り気味の猫みたいな目元と、右耳だけにつけた大ぶりのピアスに見覚えがある。毎晩のように、このコンビニで夕飯を買うせいだ。夜のシフトが多いひとなのだろう。  彼女は手元のメモを見て、また、僕と目を合わせる。 「お探しのものを当店でお預かりしているかもしれません。差し支えなければ、どのようなものをお探しか、お伺いできますか?」  淡々とした口調だった。マニュアルどおりに忘れ物の引き渡し手順を踏んでいるだけで、何の他意もない。わかっているのに、うまくことばを紡げなくなった。  こちらのようすを見て、彼女は質問を変えた。 「お名前をうかがってもよろしいですか?」 「田島悟です」  くわえて生年月日を聞きとった彼女は、抽斗からクリアファイルを出し、僕に差しだした。 「こちらでお間違いないですか?」  診断書に記された『抑うつ状態』の文字が目に飛び込んできて、とっさに顔を背ける。 「……はい」  受けとって、どうにか笑顔をつくってみせる。 「助かりました、ありがとうございます」  はにかんで、とんでもないと、彼女はかぶりを振った。  そのまま帰ってもよかったけれども、夕飯を買い損ねていた。他のコンビニまで歩く元気はない。空腹感はなくても、何か食べなければいけないのだ。手に取ったのは、いつものミニサイズのカップ麺だった。 「矢代ひかりです」  会計をしながら、彼女は藪から棒に言った。ぽかんとした僕に、矢代さんは言い訳めいた調子になった。 「名前聞いたから、来にくくなっちゃうかなって。あたしの名前知ってれば、おたがいさまになりません?」 「なりませんよ、どういう理屈ですか」  噴き出してしまって、口元を手で覆う。彼女は目を細め、人懐っこい表情をした。 「あたし、田島さんが来るようになって、ミニカップ麺の棚、充実させたんです。欲しいものがあったら、言ってくださいね、店長に掛け合いますから」 「……君だったのか」  いつからか品数が増えたとは思っていたが、まさか自分のせいだとも彼女のしわざだとも考えていなかった。驚きのあまり、口を突いて出たことばを拾って、矢代さんは声をたてて笑った。 「ネットでよく見るヤツみたいな言い回しですね」  『ごん、おまえだったのか』? そんなつもりではなかったが、たしかにニュアンスは近いものがある。  鼻の奥がつんとする。自分の存在をだれかが認識していた。それがこんなにも感情をゆさぶられることだなんて、思いもしなかった。抑えようもなく涙がにじむ。 「ありがとう、ございます」 「いえいえ、商売っ気を出しただけですよ」  わざとらしい悪ぶりかたに笑いかえして、会釈する。矢代さんも「ありがとうございました!」と、決まり文句で見送ってくれる。  雨は止んでいた。カップ麺の入った袋にクリアファイルを丸めて突っ込み、折りたたんだ傘を手に、空を見上げた。  息が白くのぼっていく。その先は、いまだ曇っている。あふれでた涙が頬を伝い落ちた。涙に外灯がにじみ、月や星の代わりに光る。  矢代さんとの短いやりとりを反芻しながら僕は、自分の靴の立てる音に導かれるようにして、家路をたどった。  翌朝、スマホのアラームの音で目が覚めた。出勤していたときの時刻設定のままで放置していた目覚ましだった。この音に気づいたこと自体、いつぶりのことか。病休に入ってから、午前中とは無縁だった。  布団から起き出し、インスタントコーヒーをすすっているうちに妙に腹が減ってたまらなくなった。冷蔵庫にあるのは賞味期限間近のビールと、梅干しだけだ。冷凍庫を漁ると、底のほうで、実家から去年送られてきた餅が霜まみれになっていた。  凍った餅をじっくりと油で焼き、醤油をかけて食べた。そのあいだにも、部屋は赤い朝日で満たされていく。  食事を終えた僕の頭は、すっきりと冴えわたっていた。精神を患ってからこちら、思考はいつも霞がかかっていて、考えはうまくまとまらなかった。それがどうだろう。いまならば、なんだってできる予感がした。カーテンのむこうに透けて見える青空みたいに、快い開放感を覚えて、引き寄せられるように窓辺に近づく。  日に照らされて輝き、また、濃い影を作る町並みはうつくしく、幻想的だった。遠くの山並みから顔を覗かせつつある太陽が、目にまぶしかった。  当たり前のはずの朝の光景に見とれて、立ちすくんでいるまに、僕の頭は元通りのぽんこつに戻っていた。束の間、思考がはっきりとした原因は、なんだろう。  そらで分析できるほど、頭は働かない。スマホのメモアプリに、昨日からの行動を逐一書き出してみる。  受診した。忘れ物をした。走った。知らないひとと話をした。朝早く起きられた。空腹を感じて食事を摂った。  いつもと違うのは、忘れ物から先だ。時系列どおり読み解けば、走ったことと知らないひとと話したことが刺激になって、朝早く起きられたり腹が減ったりしたのだと考えるのが自然だ。  運動したことで深く眠れて早く起きたのかもしれないし、ひとと話したことで気持ちが安定して、からだのサイクルが整ったのかもしれない。どちらとも特定できないが、どちらも試してみる価値は、大いにあった。朝起きられて、頭がクリアになれば、復職できる。  今晩、まずは昨日の行動をなぞろう。近所をジョギングして、コンビニで食事を買い、運良く矢代さんがいれば、会話する。  長期的な展望を欠いていた世界に、一条のひかりが差した。この道を辿っていけば、どこかに到達できる。そう信じたくて僕は、夜が来るのをひたすらに待ちわびた。  予想は大当たりだった。ジョギングとほんの少しの世間話は、瞬く間に僕のこころと頭脳を立て直した。頭が冴えている時間はどんどんと長くなり、ほとんどふつうのひとと変わらないのではと思うようになった。  矢代さんは、よく笑うひとだった。僕は、自分が仕事を休んでいること、昔はバスケ部で、さいきんまた走るようになったことを知られたかわりに、彼女が中学生のころからバンド活動に打ち込んでいること、先日、成人式を終えたばかりであることを聞き出していた。夜間のシフトが多いのは、大学生だからなのかもしれない。  僕がミニカップ麺だけでなく、ホットスナックのからあげを買い足した日、彼女はそのぶんの代金は自分が出すのだと言って聞かなかった。 「食欲が回復してきたお祝いです。田島さんは、ありがとうって、おとなしく受け取ればいいんですよ。たかだか二百円ですし」 「いや、二百円でも、年下の子におごらせるワケにはいかないよ。僕は社会人だし」 「あたしだって仕事してるんだから、社会人です。今度、あたしにお祝いごとがあったら、どーんと三倍返しでおごってください」  例の人懐っこい猫のような顔でにっこりとして、矢代さんはからあげとカップ麺と割り箸を手早く袋に詰めてくれた。  次の診察で僕の話を聞いた医師は、「何かをやってみよう」という意欲は大事なことだし、運動や外に出てだれかと話すこともよいことだと、笑顔で後押ししてくれた。 「今度は、日のあるうちに走ってみてはどうでしょう。日差しを浴びるのは症状の改善に効果的だと言われています。人目が怖いなら、早朝のひとの少ない時間帯を選んでみては?」  そのアドバイスにうなずきはしたものの、朝や昼間に走ることは、夜に走るよりも勇気が要った。ひとの目があるせいだけではない。風景や生活音といった雑多な情報が押し寄せてくる世界を動きまわるのは、いまの僕にとって、存外に疲れることだった。夜は暗くてなにも見えないし、人通りもないし、寝静まっているから、出歩きやすいのだ。 「復帰に関する意欲も出てきたと伺いましたが、焦りは禁物ですよ。昼間に出歩けないひとに、仕事はできませんから」  さんざん褒め倒しておいて、最後にざっくりと傷をえぐって、医師は話を終え、勝手に次の診察日を決め、僕を診察室から追いたてた。  来月末までの病休の延長申請に行かなければならない。診断書のコピーがきっかけで矢代さんと話すようになったのに、そのことをころっと忘れていた。いや、たぶん、わざと目を背けていたのだろう。  先日もらった診断書は、かばんのなかにある。診察は午前九時と早いので、いまから電話連絡して職場に立ち寄っても、昼過ぎには家に着くだろう。ジョギングをするようになって、そのくらいの用事をこなしても平気なくらいの体力は戻ったはずだ。  思えば、過信していた。毎日ジョギングができるようになったり、朝に起きられたりしただけのことで、僕は全能感を抱いていた。  会社の最寄り駅に着くと、運動もしていないのに息が苦しくなってきた。胸が痛いくらいに拍動する。過去にも診断書を届けに来たことがあるのに、そのときにはこんなことはなかった。疲れたのだろうか、診察のあとにこちらまで足を伸ばすのは無謀だったか。不安が鎌首をもたげ、僕を見据えている。  社屋に表から乗り込んだ瞬間のことだ。思いもよらぬ人物と、目が合った。僕はひゅっと息をのみ、俯いた。 「おつかれさまです」  会釈のように、見えただろうか。先輩は僕の視界に爪先が見えるほど近づいてきて、軽く挨拶を返してきた。そして、その流れのまま、なんでもないことのように言った。 「なあ、おまえいつまで休むの? 荷物、邪魔なんだけど。早く引き取ってくれよな。新しい人員、入れられないだろ?」 「はい、人事と調整して、早いうちに……」 「ちょうどいいじゃん、今日持って帰れよ」  言い残して去っていく足音が消えるまで、身動きひとつできなかった。あとを追ってきただれかが、僕の肩を叩き、ささやいていく。 「間が悪くてすまなかった。荷物は人事に預けておくから、気にしないでいい。しっかりと心身を休めなさい」  課長の声だった。さも自分は味方だと言うような口調で言われて、反論が胸のうちで渦巻いた。肝心なときに守ってくれなかったくせに、いまさら『気にしないでいい』? そうじゃない、僕は、僕がして欲しかったのは!  ようやく顔を上げられたときには、周囲にひとはなかった。僕を見ていたらしい受付嬢が、さっと顔を伏せる。確かに、こんな入口に突っ立っていたら、不審者だ。自嘲しながら人事のフロアまで上がっていく。  担当者に診断書を手渡し、休暇届を書く。かたわらで内容を点検していた担当者は、小さな声で問いかけてくる。 「『復職には環境調整が必要』って言われてもなあ。あんなんでも、あのひとが抜けると、営業は回らないらしいんだ。だから、田島さんが戻るのは、未経験の別の課になると思う」 「覚悟は、しています」 「今回のこと、パワハラ案件にできなくて、ホントにすまない」  そりゃ、無理だ。僕にだって、それくらいの理解はできる。『営業は回らない』なんてのも、嘘だ。先輩は、取引先の社長の息子だとの噂だった。だから、先輩がどんなトラブルを起こしても、仕事を失いたくなければ、だれも表だっては言い出せない。口には出せずに、心身を壊す。──僕のように。  会社から、どうやって戻ったのか覚えていない。ハッと気づくと、家の近くの路地に、ぼうっとたたずんでいた。からだに力は入らなくて、足の裏がまるで接着剤で止めたみたいにアスファルトに貼り付いていた。 「……田島さん?」  聞き覚えのある声に、目を動かす。矢代さんが、心配そうな顔をして、僕をのぞきこんでいた。いつものコンビニの制服ではなかったし、化粧も派手で、背中には楽器ケースがあった。  連れがいたのだろう。先に行ってて! とどこかに声をかけて、矢代さんは僕の二の腕に触れた。 「田島さん、顔色がひどい。どっか行くんですか?」 「……家に」 「そっか、連れてってあげますよ。住所は?」  とっさに言えなかった。かわりに免許証とつぶやいた。カバンごと渡された彼女もきっと驚いただろう。  矢代さんは僕に自分の肘を掴ませ、ゆっくりと歩いた。家の鍵も、たぶん、開けてくれたのだと思うが、実のところ、何も覚えていない。  次に意識を取り戻したとき、僕はカーペットにうつ伏せになっていた。からだには掛け布団がかかっていて、すぐ近くで、ギターの音色がしていた。  首だけを動かすと、テーブルの下を覗くかたちになった。むこうに、ギターの下半分と、あぐらをかくひとの足が見えた。  聞こえたのは、耳慣れたポップスだった。 「なんて、曲」  喉が渇いて、声がかすれた。 「起きたんですか、よかった」  彼女はギターを置き、テーブルに手を突いて僕を見た。 「ごめん、用事があるんだろ?」 「いいんですよ、そんなの。人命のほうが、よっぽど重要だし」  時計を見ると、もう七時過ぎだった。午前中に帰り着く予定だったのだから、一晩ぶんたっぷり寝てしまったのだろう。  だが、僕はまだ起き上がれなかった。矢代さんは肩をすくめ、ギターに戻る。その手元を見ながら、僕は彼女の声をねだった。 「今日は、バンドの集まりだったの?」 「はい。あたしが、緊張しいだから、試験本番のまえにストレス発散しとけって、みんなが集まってくれることになったんです」 「──主役がすっぽかしたってこと?」 「だいじょうぶ。どうせ、みんな好きに演奏してダベってたと思います」  彼女の声に無理しているふんいきはない。僕は気が済まなくなったが、彼女は重ねて気にするなと言い、その場を収めようとする。 「試験って、何か資格でも取るの?」 「ああ、大学を受けてみようと思ってて。高卒認定受かったんですよ、去年の十二月に。だから、今年が初受験なんですけど」  頭のなかに流れ込んできた情報が、上手に整理できなかった。彼女は大学生なのだと、勝手にずっと思いこんでいたのだ。 「受かったら、三倍返しのお祝いしてくださいよね。楽しみにしてるんですから」 「──三倍ったって、六百円ちょっとだろ? 何が買えるかな」 「バレンタインの売れ残りのゴディバが、ちょうどそのくらいの価格になるんで、一個こっそり取り置きしておきましょうか」  ギターには詳しくないが、延々と弾きながら、冗談が言えるくらいだから、矢代さんは弾き慣れている。 「田島さんは、何か趣味ありますか?」 「趣味らしい趣味がないんだ」 「続けてて苦にならないことなら、なんだって趣味って言っていいと思うけど、ホントにないの?」 「そうだな、最近なら、走る、とか?」  走り始めは辛いけど、徐々に無になる感じは、心地よい。自分という存在が空気に解けていくみたいなのだと説明すると、あまり運動しないという矢代さんは、素直に感心したような顔つきになった。 「今度、夜じゃなくて、朝に走らなきゃいけないんだ。医者の勧めで」 「そっか。じゃ、早起きしなきゃね」  なんでもないことのように言う彼女に、僕は自分の症状を教える羽目になった。 「朝起きられるなら、外にも出られるんじゃないの?」 「それとこれとは別なんだよ」 「田島さんは吸血鬼なワケ? 朝日で溶けちゃったり、灰になったりしないんだから、根本的に不可能なことじゃないはずでしょ。できるよ」  矢代さんは断言した。その瞳の力強さに、気圧されるほどだった。 「でも、怖いんだ」 「何が、怖いの」  間髪入れずに問われて、僕はことばにつまった。かわりに涙が出てきた。矢代さんは、僕の泣き顔にも揺らがなかった。 「責めてるんじゃないよ? こころって、幼稚園児みたいなものなの。ていねいに聞かなきゃ、理由を教えてくれないんですよ」  何が怖いんだろう。僕は、朝に走るのを想像してみた。公園までたどり着くと、高校のバスケ部の後輩がいた。よくマラソン大会に出ていると聞く人物だ。 「知り合いに、会いたくない」 「知り合いに会うと、どうして怖いの」  さらに考える。後輩に会えば、声をかけられる。先輩も走るようになったんですね。理由を暗に問われて、僕はことばにつまるだろう。 「さいきん、太っちゃってさあって、笑えばいいの。どうせ、走るときしか会わないもの」  走り続けると、今度は同僚がいた。相手は出勤途中で、僕を怪訝そうに見つめる。 「初日は出勤時刻より早めに走り出しましょう。慣れたら、だんだん遅くして、日を浴びられるようにしたら?」  ようやく、朝にも走れる気がしてきた。僕は、人に自分の病気のことを話すのが嫌だったのだ。  礼を述べると、彼女は肩をすくめた。 「あたしも昔、お医者さんにやられたんですよ、これ」  多くは語らない彼女の過去にも夜があり、やがて朝が訪れたのだと知ると、勇気が出た。  翌朝四時は、真っ暗だった。  早朝の空気は、肌が切れそうなほど冷たい。走りながら肺に息を深く吸い込むたび、からだのなかが清浄になるようだった。  犬の散歩や、ジョガーとすれ違ったが、みな、自分のことに集中していて、僕のことなど気にするそぶりもなかった。  こころの底から安堵して、爽快に走り終える。朝食を買いに入ったコンビニで、入店メロディとともに耳を打った「いらっしゃいませ!」の声に、僕は、店の入口で立ち止まり、目を見開いた。  矢代さんだった。彼女は僕を見上げ、猫のような目をいっそう細め、いかにも嬉しそうに、かわいらしく笑った。 「おはようございます!」  同僚の目を気にしながらのひとことに、それでも、万感の思いがこもっていることがわかって、思わず手で顔を覆う。 「……おはよう」  照れながら挨拶を交わし、朝食の会計をして、店を後にする。  仰ぎ見た空は、うっすらと明るみはじめている。いつか近いうちに、朝日のなかを走る日を想像して、僕は、その日の朝にも彼女に会えたらと、小さく願った。
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