第一幕:走る

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第一幕:走る

 1  大輔が右足にグィと力を籠めると、慣性力という物理の法則が彼の血流を滞らせ、十分な酸素の供給が途絶えた脳が、軽い貧血のような症状でその苦境を伝えた。しかしそれは、彼のような職業を生業とする者にとっては、むしろ心地良いG変化であり、その先のクリッピングポイントを通過した後に訪れる、爆発的な加速への序章に過ぎない。そのクライマックスに向けての準備段階として、彼は今、胸が高まる想いを抑えつつ、慎重に進行方向を模索していた。  彼の右脚は爪先でマイナスの加速度をコントロールしている。それは計器類から視認される情報だけに頼るのではなく、むしろ全身に感じる減速Gや振動、更には耳に飛び込んでくる音なども含めた総合的判断から状況を的確に把握し、制御不能に陥る一歩手前を綱渡りのように走り抜ける芸当だ。  その一方で右脚の踵は、左脚と左腕を交えた三者の共同作業によって、段階的な機械操作をスムースな速度変化に変換し、発生する減速Gの制御に一役買っていた。  そこに彼の両腕による円運動の仕事が加わり始めると、減速に伴うG変化に加え、横方向の加速度が加わった。それによって振動に変化が起き、聞こえている音も変わった。両腕に伝わるステアリングインフォメーションも、車両が急激な回頭を開始したことを告げている。  横に持っていかれそうな自身の身体をタイトなシートに固定させ、ヘルメットで重くなった頭は首の筋力で抑え込む。ヘルメット越しに聞こえるスキール音にも神経を尖らせつつ、路面とタイヤ間に発生している反力に想いを馳せ、許される限りの上限の速度でコーナーに突っ込んでゆく。  今日はコース脇で風に揺れるタンポポが目印だった。そういった目印とはいつも同じ物ではなく、時にコース上に残された特徴的なスリップ痕であったり、アスファルトの細やかな亀裂であったり、或いはコース脇に転がる変わった色の石ころであったりする。  この日は黄色く可憐な一輪の花を目印として大輔の行うべき操作が切り替わり、彼を取り巻く世界が大きく一変するのだ。そのコーナーでの最大Gを迎えた瞬間、大輔はヘルメットの中でほくそ笑んだ。  「もう少し攻めても大丈夫かな? じゃぁ、タイヤが温まった次のラップで」  減速から一転、加速に転じた彼の操る白いGOLF GTIは、大きくロールした車体姿勢を復元させつつ、徐々に速度を上げる。大輔の右脚は既に中央のペダルに別れを告げ、右側のペダルに添えられている。それが司るアクセル開度も、減速時と同様、全身の感覚を研ぎ澄まして得られる情報を元に、慎重にコントロールされていた。  素人が「ガツン」と踏み込むアクセルワークでは、一気に上昇したエンジントルクがタイヤのグリップ力を超え、車輪を空転させてしまう。そうやって発生するホイールスピンは見た目には派手だが、トラクションを失ったタイヤには車体を前に押し出す力も ──勿論、車体を止める力も── 或いは、車体の進行方向を決定する力さえも発生してはくれないのだ。  減速時、旋回時、そして加速時と、タイヤが許容できる限界領域で車両を駆り、その良し悪しを判断するのが大輔の仕事だ。それはサーキットのラップタイムであったり、あるいは車両に搭載した計測機器によって得られる計量値によってなされる場合も有るが、最終的に最も重要視されるのは、テストドライバーによる官能評価である。  現代の科学技術では、それはいまだ特定の物理量への置き換えが出来ない「感覚的」な評価基準ではあるが、そういった要素こそが工業製品の価値を決めていることはあまり知られてはいない。  それは絵画や音楽に代表される、芸術の類とも同様である。例えば食品や飲料品など味覚に関する商品、またはファッションやデザイン要素の重要な商品を、何らかの評価基準によって単純に順位付けすることができないように、大輔の評価対象であるタイヤも、エンジニアがこねくり回す数式やら理論だけではその優劣を判定出来ないのだ。  20Rのヘアピンを抜けた大輔は加速しながら、緩やかな登坂を開始する。坂の向こう側は見通せないが、その先には杉林を抜けるように緩やかなS字が続いていることは判っている。そこでの切り返しのイメージを膨らませつつ更に加速し、そして遂に坂の頂上に彼の駆る車両が姿を現した。  四輪全てのサスペンションが一斉に伸び、フワリと浮くような感覚の後に着地を果たす。ダンピングの利いた固めの足回りが、その衝撃を吸収し始めたその時、大輔の視界に赤褐色の物体が飛び込んで来た。  急制動を試みる大輔。しかし坂を上り切った際に発生したバウンシングを、まだサスペンションが吸収し切ってはいない。捉えるべき路面を、四本の脚がまだジタバタと探しているようなイメージだろうか。そんな状態で踏まれたブレーキは、ドライバーの意図する十分な制動力を発揮するはずも無く、クイックステアで回避を試みるが、車両はコントロールを失ってコースアウトした。  盛大な土煙を上げて干渉帯に突っ込んだ車両は、杉林に突っ込む前にサイドターンのような状態で停止した。そして停車と共に大きなロールが発生し、ユッサユッサと大輔の身体を揺さぶってから沈黙した。  「びっくりしたぁ・・・ 犬か、あれ?」  大輔はドアを開けて車外に出た。そして沸騰するアドレナリンを冷ましつつ、このような事態を引き起こした真犯人を特定しようと辺りを見回す。すると、コース脇の草むらの中から、キラリと光る眼がこちらを見詰めていることに気付いたのだった。  大輔は手にしていたトランシーバーの通話スイッチを押した。  「今居から全車両へ。たった今、ドライハンドリング路でコースアウト発生。人員、車両共に損害無し。コース上に散乱した砂利を撤去するまで、ハンドリング路はクローズして下さい。  重ねて報告します。只今、テストコース内にキツネが侵入しているもようです。試験走行中の車両は、ご注意下さい」  ボツッ・・・ という無線のイズの後に、事務方からの応答が入った。  「はい、こちら試験管理棟事務所、了解しました。ドライハンドリング路の信号を『赤』に固定します。各車、侵入動物に注意の上、試験を継続下さい」  トランシーバーでの通信を終えた大輔は、ぐるりとGOLFの周りを一周して四本のタイヤをチェックする。そして左前輪の横に片膝を付き、タイヤに右手を添えた。  「上手く躱せたと思ったんだけどなぁ・・・ タイヤも十分温まってるし」  その大輔の様子を見ていたキツネは、ピョンと飛び跳ねて草むらの奥へと消えていった。
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