プロローグ

1/1
59人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ

プロローグ

 どうしようもなく焦燥感だけが傍にあった。右足だけを伸ばしてそれを蹴飛ばすと、あとは見ずに起き上がる。朝だ。朝は仕事の支度をする時間である。幼い頃からあらゆる準備が遅かった自分は、ノロノロと寝癖を治しながら顔を洗いに洗面台に向かう。  割れた鏡には死にかけの男が映っている。胸の方は健康な皮膚がどこにも見えないほど掻きむしられている。仕方がないそう言う癖だ。男の瞳孔はグルグルと回っていて、昨夜の酩酊を思い起こさせる。酩酊といえば酒だが酒ではない。そんな大学生のような無邪気さは自分にはない。かといって洋画のスターやギャングが取り扱うような薬物でもない。そんな破天荒さもない。  ただの臆病者の行き着く果てだ、市販の風邪薬なんかひたすら飲むのは。昨日飲み干せずぬるくなりきった安酒で処方薬を飲み干し、また風邪薬の瓶を開け、ザラザラと喉に流し込む。ほのかな甘味を持った糖衣がベタベタと喉に張り付く。昨日吐いた吐瀉物が鼻を抜ける。気分が悪いが日銭を稼ぐにはこれしかない。もはや、自分の人生には嚥下か嘔吐しかないのである。  一歩外に出れば風の冷たい日だ。猫背気味た身体をさらに丸めて、目深に被った帽子をさらに押し込む。安アパートの階段は錆び付いた音を立て、荷重への恨みを伝えてくる。自分としても申し訳ないのだが、これでも一応生きているもので。 (死んだら重さはなくなるのだろうか)  なくなるよ。当たり前じゃん。 ⭐︎  朝の五時など人通りも少なく、快活な老人たちが散歩している。彼らの暖かい家庭を思い少し泣きそうになったりしながら、同じ顔つきの人々が待つ場所に到着する。  成人してちょうどくらいから年老いた人まで10人程度点在し、駅前のロータリーに列を作っている。とはいえまだサラリーマンの出勤時間ではないし服もてんでバラバラだ。自分はだらしない長髪にラフな運動靴とジャージだが、バンドマン風のピアスだらけの男もいれば、先程通り掛かったような老婆もいる。けたたましい音を立ててバスがやってくると、気休めみたいな点呼があり、彼らは気怠げにそれに乗り込む。動きのない顔でバスに揺られる様子は囚人か家畜。そしてそれはあながち比喩ではない。  何度かの雑なブレーキを経て乱暴に扉が開かれる。現れたのは灰色の直方体。ならず者たちの最終処理場、こと、食品加工工場だ。俺たちは日雇いでここに働く愉快な仲間たち。 「おい市子(いちご)! ボーッとしてんな!」  猿でもできる作業でも文句をつけてくるはいる。弁当のシュウマイにグリーンピースを載せる作業に何をそんな集中しないといけないのだろう。ただ、今怒号を浴びせてきたのはこの道20年、中卒の日雇いから工場職員に上り詰めた広田さんなので、この仕事に愛着があるのも分かる。 「あ、すんませ」  溜息くらいの声量で謝ると猫背を少しだけ伸ばしてグリーンピースをキリッと睨みつけることにした。訳わかんねえさっきと効率変わってねえマジかったりいな。にしても、みんな揃いの作業服と作業帽をしてよく誰がどれかわかるものだ。理由はなんとなく検討が着く。俺は背が高い。それだけの理由でいつも目立つ。だから猫背にしているがそれはそれでやる気がなく見える。そして怒られる。負の連鎖である。 「広田さん娘さんが家出して気が立ってるらしいから気にしないでね」  隣のレーンでパスタを一定量に載せていた人から声をかけられる。そうは言われてもあまり気にしていないのだが、八つ当たりだったとなると余計腹が立つ。この人は小室さんと言ってとにかく耳が早い。専業主婦で10年間くらい暮らしていたのだが、夫に浮気されて離婚してから一人暮らしになったのだと言う。元来耳が早いらしいのだが、人を呪わば穴二つ的ななにかなのだろうか。  当の自分は先の風邪薬が効いてきて、だいぶ気分が良くなってきた。今日は普段より特に苦しかったから一瓶全て飲んだ。昨夜も同様だ。寝るのに一瓶必要だから。  薬がなきゃ眠れない。精神科の薬は効かない。親は子を愛さない。努力は報われない。使えない新卒は必要ない。学歴は社会で通用しない。100点とっても褒められない。偏屈な自分は愛されない。愛されない人間は、必要ない。自分に残された道は死ぬことしかない。 この20そこらの人生で学んだのはたったそれだけ。間違いなのは生まれてきたことだけ。それだけ。 (でも感情って脳の幻覚だから薬で弄っちゃえば感じないよな)  もはや絶望の前に悲しみも特になかった。茫洋と死が目の前に横たわっているのだ。あとは力尽きて倒れるだけって感じだ。 ここに来ている人達はみんな似た者同士でそうではない。傍から見たら他で働けない社会のゴミクズだが、俺以外の皆は生きるために働いている。中卒でもバツイチでも元ヤンでも前科者でもメンヘラでも障害者でも生きるために働いている。 だって待っている何かがあるから。  広田さんには娘がいるし小室さんにはペットの文鳥のピーちゃんがいる。俺が生きてて喜ぶのは税務署と製薬会社だけ!  この焼売に一抹の希死念慮が混ざって食べたやつみんな不幸になればいいのにな。小室さんにいつか言われたあなたには未来があるという言葉を思い出す。ないよ。俺には目の前の焼売しかないよ。会社も大学も全部バックれた俺には親の期待も愛も何もないよ。  頭の中でunderworldのbornslippyが流れ出す。昔観た映画のあの曲だ。映画の中でエイズで死んだ男を思い出した。俺もあんなふうに猫のフンの中で死んでいくんだろうか。  ゆらり、と視界が揺らめく。俺の左側、小室さんの逆サイドで弁当箱にプチトマトを詰めている人だ。よく見ると全身汗まみれで震えて足に力が入っておらず倒れかけている。俺はグリーンピースを放り出しその人を助けに行った。 「おい市子ォ!」 「大丈夫ですか!?」  広田さんの怒号を後目に倒れたその人に呼びかける。顔を見れば若い女だ。作業帽から赤く染められた髪の毛が見える。グズグズと鼻をすすり半泣きのようだった。  俺の顔を見て安心したのか女は呼吸が落ち着いてきた。呼吸を楽にしてやろうとマスクを下ろす。その瞬間。 「ぐぼぼボぼゲェ!!」  下水道のような音を立てて女は吐瀉物を吐き出す。ヘドロの中みたいな視界。きゃあ、という小室さんの悲鳴が耳をつんざく。大丈夫かぁ!? という広田さんの声も聞こえる。職員たちはバタバタと忙しなく動き回り、さっきまで永遠に動くようなツラをしていたレーンは止まり、作業も止まった。救急車や担架が手配される。話し声から聞くにこの女はニシナさんというらしい。どうでもいいけどこれはニシナさんのゲボということになる。 「え、ど、どうしたんです、か? 胃腸炎?」  混乱と緊張で吃りながら質問をひねり出す。するとニシナさんも混乱しているのか泣き出した。 「あ、あたしぃ、つらくて、つらくてぇぇ…」  そう言いながら俺の腕を強く握ってくる。 「き、きかせて、ください」 「専門でいじめられてぇ、…彼氏も、浮気するしぃ、うううううっっ…」  今のところ全然つらそうではないが神妙な顔で頷いておく。 「だから、どうにか、したくってぇ」  殊更大きくしゃくりあげながら彼女は続けた。 「お、OD、したのっ…、はじめてだったけど….…ブロン、いっぱいっ!!!」 「……」  えーっと…。  周りを見回す。  小室さんは頷きながら泣いている。広田さんも俯き首を振っている。気付けば周りにいた職員もみんな悲しげな顔をしていた。 自分はどんな顔をしているか、もうわからなかった。 「へ?」  すっとぼけた表情のニシナの肩をがっと掴む。 「その心配は俺のもんだろうが!!!!!」  ニシナを床に叩きつけると、俺は叫びながら工場を抜け出した。車道も信号も知らない。目の前のゲロでそんなもん見えない。 何が違う。俺とあいつは何が違う?  無邪気に周りを頼れるあいつと、抱え込んで不貞腐れている俺とでは何が違う?  俺はどこで道を違えた? 愛されないわけはどこにあるんだ?  手を差し伸べられる権利は、一体誰に与えられる? 「あ、う、ぐ……」  走りすぎた。ここはどこだ。だけど足が止まらない。肺が苦しい。煙草で爛れているから。 「オボぅぇァ!!!!」  ニシナと同じような音を立てて俺もゲロを吐く。視界が回って吐瀉物の中に走馬灯が見える。ニシナ、広田さん、小室さん、文鳥のピーちゃん、シュウマイ、市販薬、なぜか両親の顔。好きでこんなふうになったわけじゃない。 (もう疲れた。)  俺も倒れた。もちろんひとりで。ここで一旦記憶が途絶えている。 ⭐︎ 「いっく~ん、寝てるの? いっくん? 今日は何錠飲んだの〜?」  甘ったるい声が午睡を蝕む。いつの間にか気分の悪い夢を見ていたようだ。朝飯を作りながら赤い髪の女がこちらを向いている。  あの日から、俺は工場を出禁になった。とはいえこの世に工場は星の数ほどあるから問題ない。しかしどうしてもお詫びがしたいとニシナから工場を通してしつこく連絡があり、LINEを交換し、時々こうして会いに来る。ブロンを買って会いに来る。 「いっくんと一緒に死ぬんだ」  彼氏と復縁したのにも関わらず、そんなくだらないことを言ってくる。練炭自殺がいいと言うが、またゲロぶちまけられそうだから嫌だと答えている。というかこいつは死ぬはずない。憧れだけでそういうの言わないで欲しい。  自分はといえば惰性で生きている。胸の傷は一層濃くなった。市販薬は1日2瓶に増えた。ニシナが来ることも死なない理由にはならない。働く気が失せたらいつでも死ねる。  だけど、それでも、あの日確かに俺は叫んだ。  風の噂だが、ピーちゃんが死んだという。小室さんは今度はハムスターを飼うそうだ。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!