二章

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「坊っちゃまはどんなにお勉強で夜遅くにお休みになられても、私が行く前には起きていらっしゃいます」 「……着替えを手伝ったりとかは?」 「そんなことはしたことがございません。坊っちゃまは三歳の頃には一人でお着替えをされていたので」  朝食を終えた尊を送り出した後は武内以外の使用人への挨拶、そして各部屋の案内から主な仕事内容の引き継ぎを受けていた。  尊の身の回りの世話がメインの仕事なので自然と今朝の話題となる。朝なかなか起きなかったことや、学校に行きたくないとぐずったこと、着替えの手伝いを強請られたことなど事細かに話すと武内は信じられないような顔をしていた。 「身内の私が言うのもあれですが坊っちゃまは手のかからない本当に優しい心根を持ったお方です」 「まだ舐められてるんすかね」 「坊っちゃまが人で態度を変えるというのは見たことがございません。ただ……」  不思議そうな顔で寿を見つめてくる。一度頭を洗って武内の指導の下、髪の毛をセットしたのだが上手くいってなかっただろうか。 「俺の髪、まだ変ですか?」 「いや、そんなことはございませんよ。私が不思議に思うのは坊っちゃまが貴方にひどくご執着されていらっしゃることです」 「やたら人懐っこいな、とは思ってましたけど」  武内の反応からして尊の様子がいつもと違うは本当なのだろう。 「以前、坊っちゃまとお会いした……なんてことはございませんか?」 「いやいや、コンビニのバイトの時もタクシーの運転手の時も尊……いや、坊っちゃんにお会いしたことはないっすよ」 「そうですか……実に不思議なものだ」  まさか自分みたいな落ちこぼれ人生の中で宝来家との接点があるわけないだろう。今この現状ですら常軌を逸した状態であるのいうのに。 「ただ、懐いてるっていうよりも……寂しがってる気がして」  それに寿には尊がただ駄々をこねているように見えないのだ。上手く言葉に出来ないが我慢していることを寿の前でぶちまけているような、そんな気がする。 「あの、言いにくかったらいいんですけど。坊ちゃんのお母さんって」 「……奥様が亡くなったのは一年ほど前。持病の再発でございました。急なことでしたので坊っちゃまの心には今も傷が残っているでしょう」  急に母親と別離して、父親は仕事で忙しい。そうすると自然に愛情を求めてしまうのかもしれない。 「ですが坊っちゃまはすぐに私達に笑いかけて下さいました。僕は大丈夫だから、パパの側にいてあげて、と」  父親の落胆を見て使用人一人一人にそう声をかけたそうだ。もし普段の我慢が反動として新参者の寿に向かったのだとしたら皆との対応の違いについても合点がいく。 「坊っちゃまは本当に素直な方ですから私達もその言葉に甘えて、坊っちゃまのケアを疎かにしてしまったかもしれません」 「難しいことはあまり言えないっすけど……でも、拾ってもらった以上は尊坊ちゃんに全力で尽くします」  闇オークションの時にもし、尊が買ってくれなかったら寿は用済みとして悲惨な末路を遂げていた。恩返ししたいという気持ち。そしてあの無邪気な笑顔の裏に暗い何かが潜んでいて、それが尊を苦しめているならどうにかして払拭してやりたい。 「その言葉を聞いて安心致しました。私も全力で伊沢さんの指導にあたらせて頂きます。どうぞ、よろしくお願い致しますね」  ただでさえ威圧感のある武内の目に力が入る。若干恐ろしくもあるがこれも尊を、ひいては宝来家を想うが故。その真っ直ぐな姿勢に寿も不安を取り去って尊と向かい合わなければならないと強く決意した。  寿は今、震える手でハンドルを握っている。  先ほどの武内との会話で不安を取り去ろうと決意したばかりなのに、わずか数時間で身体中が不安と恐怖で満ち溢れている。 「私も若造の頃はおっかなびっくり乗っておりましたがそのうち慣れますよ」  助手席で武内がほがらかに笑った。艶やかな黒のボディーが目を引く高級車の運転席に寿は座っている。学校帰りの尊を迎えに行くためだ。朝は別の運転手が尊を送っていったが、本来は尊の使用人である寿の仕事。そうなると必然的に宝来家の車で向かうことになる訳だが、左ハンドルにも慣れない。皮のシートがフカフカ過ぎて逆に居心地が悪い。タクシー運転手の仕事をしていた時はこのような良い車には乗っていなかったので、同じ車でも全く別の何かに乗っているようだった。 「そ、そろそろですかね?」 「ええ、そこの角を右に曲がれば坊っちゃまの通う中学校がございます。大体の道は覚えましたか?」 「何とか……」  とは言ったものの緊張で今にも吐きそうな状態なので、今までの道順など全く頭に入っていない。あとでもう一度地図を見直した方が良さそうだ。 「坊っちゃまがいらっしゃいましたね」  校門が見えるくらいの距離まで来ると尊が一人、立っているのが遠目からでも分かった。地面の石ころを爪先でいじくり回しながら、退屈そうにしている。寿といる時とは全くの別人のようだった。  尊の目の前に駐車する。正門から出てくる生徒達の目がこちらに集まった。武内からは名門私立の中高一貫校だと説明を受けている。生徒達もそれなりに豊かな家庭で育っているのだろうけれど宝来家の資産には遠く及ばないだろう。送り迎えが珍しいのか奇異の目を向けては、遠ざかっていく。  しかし尊はそんな連中の目などこれっぽっちも気にしていない様子で、車に乗り込んできた。 「おかえりなさいませ、坊っちゃま」  バックミラー越しに目が合う。運転席に寿がいることに気付くと退屈そうだった顔が途端に明るくなった。 「寿が運転してる!」 「伊沢さんがこれから送り迎えをいたします。この後、家庭教師の先生がいらっしゃいますからね。宿題は全て終わってらっしゃいますか?」 「全部終わってるよ。ねぇ、武じい。授業が終わったら寿と遊んでもいい?」 「宿題が終われば後は何しても構いませんが……」 「じゃあ寿と宿題やる!」  いきなり自分が話に上げられて狼狽える。それでも絶対にこの車で事故を起こせないからただただ前を向いていた。 「坊っちゃま、宿題はいつもお一人でやっていたでしょう」 「いいの! 寿とやるの! 僕の宿題を寿が見張っていればいいんだよ!」 「みこ……坊ちゃんがそう言うなら」  運転に集中し過ぎて受け答えが疎かになる。武内が必死に尊を宥めていたが、目の前に集中していたのでやりとりの半分も耳に入ってこなかった。
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