二十話

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   卒業式の最中、僕はほとんど上の空で、いつの間にかそんなことを思い返していた。どの行事も流れに任せてこなすだけで、部活にも行かなかった僕の三年間は、やはり何かをやり遂げたと言えるものにはならなかったと思う。その代わり何故か頻りに浮かんでくるのは、校舎の裏で日比野さんと話をした放課後のことばかりだった。  荒らされた花壇の風景や、時々咲いていた花の色を思い返す。  無くなってしまった紫陽花の木を思い返す。  のんびりとした口調を思い返す。  沸き上がった苛立ちを思い返す。  気を遣われているような微笑みを思い返す。  あの人が僕の父親か、と。改めて考えた。 「川瀬凪」 「はい」  担任に名前を呼ばれて席を立ち、檀上へ向かう。  一週間前に日比野さんと話した日の、前日の夜、僕は部屋の抽斗に入れっぱなしにしていた母親からの手紙の封を開けた。封筒に書かれた「凪へ」という文字の通り、中には僕宛ての手紙が入れられていた。僕を産んだ母親が書いた、僕への手紙。そこには、母親の想いや謝罪の言葉、そして、僕の名前を決めた日のことが綴られていた。  十八年前、母親はいったいどんな気持ちでペンを執ったのか。それをすべて理解することなんて、きっと僕にはどうしたって無理だ。それでも僕は、卒業式まで毎日手紙を読み返した。顔も声も、何も知らない母親と、話ができるような、そんな気がした。  卒業証書を受け取って席に戻りながら、もうほとんど憶えてしまった手紙の文面を頭の中でなぞっていく。手紙の中で母親は、僕の名前を何度も何度も繰り返し呼んだ。  凪。  僕は、この名前が好きではなかった。  自分の思考や感情の中に閉じこもりながら、いつも小さなことで波を立てている僕なんかには、似合わない。そう思っていた。初めて手紙を読んだ時だって、こんな名前は押し付けだと泣きたくなった。 ――「凪くん」  日比野さんとの別れ際、背を向けたまま帰ろうとした僕を彼はそう言って呼び止めた。中途半端に半身だけで振り向いたのは、その言葉に、名前に、真っ直ぐ向き合うことが出来なかったからだ。 「わたしに会いに来てくれて、本当にありがとう」  俯いた先の地面では、風に吹かれた落ち葉が転がっていく。言いたいことはあるはずなのに、上手く言葉が出てこなかった。  許せないと思っていた。ずっと、許せないと思っていた。  僕は貴方を許せないと、言ってやろうと思っていた。  責任も取れないくせに子供を作るような性行為をした貴方を許さない、と。  守るためだなんて銘を打って放り出した自分の子供が、こんな風に育ったのを、貴方は知らないでしょう。こんなにひねくれて育ったのを、知らないでしょう。感情に振り回される瞬間が嫌いだ。沸点の低い血液が流れるこの身体が嫌いだ。そんな僕を作った貴方のことが嫌いで、許せないけれど、それ以上に自分のことが大嫌いだ。一番許せないのは、自分自身だ。怒りに任せて誰かを傷つけるのが怖い。何かを捨ててしまうのが怖い。何かを形に残すのが怖い。家族を作るのが怖い。子供なんか、絶対に作れない。 「……」  僕はそれを全部飲み込んで、ただ息を吐いた。そんなことで憤りが消えたわけではないのに、腹の底が激しく煮えるような感覚はない。  何だか、もう疲れた。  ぼんやりとそんな思考が浮かんだ瞬間、僕は、日比野さんが「後悔はない」と言った訳や自分がそれにほっとした理由が、何となく解ってしまった。 「……一つ、約束してください」  その日、僕は初めて日比野さんと視線を合わせた。 「このチューリップ、最後までちゃんと咲かせてください」  彼は自信が無さそうに微笑みながら、「頑張るよ」と言った。  
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