クレア〜貴女に出会えて

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「一の一」    霞みがかかったようにぼんやりとした景色が視界に広がっていた。  右手で右目を、続いて左目を擦った。それから右手の親指と人差し指で閉じた両瞼を数回軽く揉んでみた。再び目を開けてみる。最初は同じように霞んでいた景色が次第に鮮明になってくる。  その景色を認知したとき、まず最初に信じられないという思いが襲ってきた。そこは外だった。視界のおよそ左半分を占めているのは青々とした空。右半分は灰色のコンクリートと所々錆び付いた鉄筋が組み合わさって構成されている建造物。遠近のアンバランスはあるが、単純と複雑が見事にコントラストしているように見えた。  視覚の次に働いたのは聴覚だった。コンクリートと鉄筋の建造物の向こう側から間断なく響いてくる轟音を耳が捉える。刹那の後、その建造物が高速道路の高架であることが分かった。  僕は屋外、しかも高速道路の高架下に仰向けで寝そべった体勢でいることを理解した。意識が覚醒を始めると、困惑が広がっていき、それと同時に頭部の痛みを自覚した。アスファルトに接地している頭部を少しだけ起こしてみる。痛みの出所は後頭部だった。鋭利な突起物で突き刺されたような痛みが絶え間なく襲ってくる。その痛みに怯みそうになったが、ゆっくりと上半身だけを起こしてみた。  ゆっくりと細心の注意を払うように起きあがったつもりだったが、後頭部の痛みは増した。僕は顔を顰め、右手を後頭部に回した。そこにははっきりと分かる膨らみがある。どうやら転んで倒れでもしたのか、後頭部を打ち付けたらしい。  痛みが続く頭を引きずるようにゆっくりと辺りを睥睨した。足の先、一メートルほどのところには高速道路の高架を支える大きな柱が聳えている。右側も一メートルほどのところに金網のフェンスがあり、その向こう側はどうやら駐輪場になっているようだ。今は十台ほどの自転車が疎らに散在している。さらにその先にはマンションらしき建物も見えた。  左側は道路だった。道幅は二メートルほどしかなく、その先は一メートル五十センチほどの高さの壁がずっと続いている。そのせいで、さらにその先には何があるのか分からなかったが、かなり先の左前方に比較的高層のマンションが並んでいるのが見えた。壁の向こう側に何があるのか、それを確認するために僕は立ち上がろうとした。  しかし、これがなかなか困難な作業だった。後頭部の痛みに真っ先に気がいって気付かなかったのだが、身体のあちこちも痛い。顎、胸、脇腹、二の腕、腰、太股、足首……。身体のあらゆる部位が、ずきずきと痛む。いったい僕は、どんな大転倒をしたのか。おまけにこんなところで眠ってしまったのかと思うと、恥ずかしさが込み上げてきた。  その恥ずかしさから逃れるためにも、早く立ち上がらなければと思った。上半身を起こしたまま、下半身を引きずるようにしてフェンスのそばまで寄り、金網に手をかけて何とか立ち上がることができた。立ち上がる作業で、身体中がギシギシと鈍い音を立てているかのように痛みを増した。後頭部の痛みも相変わらず続いている。  一歩ずつ引きずるように左右の足を交互に前へと出した。まるでポンコツのロボットのような歩き方だ。二メートル少しの道幅を渡りきるのに、一分以上の時間を要した。そして、倒れ込むように壁に寄り掛かった。自分の体重を受け止めた手の平に痛みが走ったが、痛みに慣れてきたのか、最早あまり気にならなかった。  それよりも、僕の視界に飛び込んできた壁の向こう側の景色だ。それは川だった。小川というレベルではない。川幅は五十メートル近くある。かなり大きな川だった。向こう岸には駐車場、空き地、何かの工場、そしてマンションなどが並んでいる。大きな川沿いの遊歩道、そしてその上には高速道路が走っている。そんな場所に僕は怪我をして、どこかに後頭部を打ち付けたあげく寝転んでいたのだ。  自分のいる状況はある程度理解したが、ふと一つの疑問が浮かび上がり、僕はそれを言葉に出していた。  「どこだ、ここ」  言葉に出してはみたが、それで状況が好転するはずもなかった。僕には、ここがどこなのか分からなかった。どうやってここへ辿り着いたのかも、まるで憶えていなかった。不安に駆られたが、すぐにその不安を振り払うように、僕は痛む身体を引きずるようにして歩き出した。これだけ大きな川と、それに沿って高速道路が走っているのだ。このまま川沿いを歩いていけば、地名の分かる場所にきっと出るだろう。  どうやってここへ辿り着いていないのか憶えていないという状況には自分のことながら呆れもするが、今はとにかく身体を休めたかった。柔らかさと温もりのある布団に包まれて眠るためにも、自分の家に帰ろう。  そう思ったときに、僕は思わず立ち止まった。自分の家がどこにあるのか思い出せないのだ。  「まさか、そんなわけ……」  声に出してみたが、ここでも状況は好転しない。焦燥感が込み上げてくる。  「僕の家、僕の家、僕の家…………」  何度も口に出して繰り返してみたが、一向に思い出せない。自分を落ち着かせるように、胸を手の平で二度叩いた。痛みは走ったが、それは何も気にならなかった。今、僕の心を支配しているのは焦りだった。  目を閉じて考えてみた。しかし、考えれば考えるほど、闇の奥深くへ進んでいってしまうような感覚にとらわれた。焦燥は不安へと変わっていた。  「ちょっと待ってくれ……」  誰に、或いは何に問いかけるわけでもなく、そんな言葉が自然と口を衝いた。   「僕の家……」  もう一度、声に出してみた。  「僕の家…………僕……、僕?」  自分で吐いた言葉が自分の耳に届き、鼓動が大きく跳ねた。不安が拡大する。僕は、自分の名前も思い出せないのだ。  冗談だろ、落ち着け、と僕は自分に言い聞かせた。自分の名前、自分の家、思い出そうとする。何度も何度も思い出そうとした。しかし、思い出せない。僕は頭を左右に振った。激痛が頭を襲う。忘れていた痛みが蘇り、さらに勢いを加速させたようだった。  頭を掻きむしった。表情が強張っていくのが分かる。右手が震えだした。  自分の名前は…………思い出せない。  自分の家は…………思い出せない。  年齢は…………思い出せない。  家族は…………思い出せない。  出身地は…………思い出せない。  仕事しているのか、学生なのか…………思い出せない。  好きな人は…………思い出せない。  友人は…………思い出せない。  何もかもが思い出せない。何もかもが分からなかった。  僕は記憶を失っている。僕はそう自覚した。そう自覚した心は、不安ではなく恐怖によって支配され始めていた。  「何が起きたんだ…………僕はいったい誰なんだ……」  声に出してみたが、その言葉に対する解答はなく、ただ虚しく響いただけだった。  顔を顰めた。右手の震えが激しさを増した。恐怖がさらに込み上げてきた。その恐怖を振り払おうと、僕は絶叫していた。
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