序章 あるいは指にまつわる奇譚

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序章 あるいは指にまつわる奇譚

「あなたの指を見せていただけませんか?」 「え!?」  突然そうたずねられたからびっくりした。 でも特に逆らうでもなく素直に右手の指をさしだしたのはバーという特殊な空間だったからかも知れない。 カウンターにいる女性マスターが 「悪い方ではないことは保証しますよ。もしお嫌で無かったら」 と苦笑している。  まさかこんな場所で手相見でもあるまい。  壮年の男性だが、隣にギターケースを置いている。    高槻圭太はグラスから手を離し指をカウンターに広げる。  男性は首を突き出すようにカウンターの上の指を眺めている。  さすがに触れるような無礼はなかったが、なんだかこそばゆい。 「あのう。」 とおずおずと声をかける。 「私の指がどうかしましたか? それとも何かわかりましたか?」  よほど集中して観ていたのか男性ははっと顔を上げると照れ笑いを浮かべた。 「不愉快に思われたら申し訳ありません。私の癖でして。人の指を観るのが好きなんですよ。」 「はぁ……。」  なんとも奇妙な習性だ。  バタイユの眼球奇譚を思い出す。  かわったフェチシズムからの連想だろうか。 「特に職人の指が好きだとか、指で人となりがわかるとはもうしません。ただその指がどんな使われ方をしているのか気になりましてね。」 ちょっと興味がわいてきた。 「私の指をみてなにか連想しましたか? 職業とか趣味だとか」 こまったと言う風に頭をかいているが 「外れていたらごめんなさい」 と話し始めた。 「炊事はよくされていますね。しかし日焼け具合から現場仕事ではないようだ。指の可動域の広さからパソコンをよく使うお仕事では? 事務仕事というよりはマウスよりタイピングの多い、プログラマとかライターとか。どうです?」  高槻は素人ながら日々の生活や仕事の出来事を文章にしてwebに投稿している。当たったいる。 「今の私の仕事は大体そんなものです。しかしよくわかりましたね。へぇ。指でわかるんだ。」  今度は自分で自分の指をしげしげと見つめてしまう。  マスターはマッカランのおかわりを私に出しながら 「宮澤さんはね。音楽家の指にご執心なんですよ。」  宮澤と呼ばれた男は汗をふきながら恐縮しっぱなしだ。  でもそれなら高槻でもなんとなくわかる気がする。 「ピアニストとかバイオリニストとか?」 「ええ。それはそうなんですが。僕はプロの音楽家の指ではなくて音楽をやっていながら普通の生活を送っている人に興味があるんです。」  何やら意味深な言葉に好奇心が刺激される。  時間はまだ午後7時。  お店が開店したばかりで宵の口だ。 「もし長い話でも、あなたさえ良ければお付き合いしますよ。お聞かせくださいな。指を見せた料金分としましょう。」 きょとんとした目で見つめられた。 「今までそう返されたのは初めてです。これは高くつきました。話さずにはおれませんね。」 にこやかに申し出を受けてくれた。  ハイボールをぐっと飲み干すと宮澤は指にまつわる物語を話し始めた。 (つづく)
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