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(失敗した……)
リタは途方に暮れていた。
空腹は耐えがたいほど胃を締め付け苛んでいた。最後に食べ物を口にしたのは二日前。
それも誰かの食べ残しのパンのかけらで、育ち盛りの九歳のリタでなくとも到底満足できるものじゃなかったからだ。
(あと少しでハムとチーズが食べられたのに……せめて一口くらい頬張ればよかった)
家に食べ物がないわけではない。
ただリタのために用意される食事がないだけだ。
一週間前父が死んでから、養母はリタの養育を放棄した。自分が生んだ二人の子供を養うのが精いっぱいだと言って。
父の亡骸の前でぺたんと床に座り込んだリタに、養母はさげすんだ眼を向けた。
もっとも父が生きていたころから、彼女が自分を見る目は常に憎しみにあふれていたのだけれど。
『稼ぎもないのに一丁前に隠し子だけは作ってくるんだから大したもんだよ』
父が仕事で不在の日々のほとんどをこの養母の側で過ごしたリタは、彼女の言葉でまだ幼いころから真実を知っていたから、洗濯だって自分でしたし、服が傷めば自分で繕いぼろぼろになるまで着た。
でもおなかがすくのだけはやっぱり我慢できずに、養母が不在の時を狙って台所に忍び込んだのだった。
そして……。
たぶん養母は今までリタがそうして食べ物をくすねていることを知っていたのだと思う。
あんな風に食べ物を置きっぱなしにすることを普段のあの人ならしない。
(つまりあれは罠で、私を堂々と追い出したかったってことよね)
養母にみつかったリタは、どうしてそんなものがあったのかは知らないが、ムチで数回打たれたあと、とうとう家を追い出されてしまったのだった。
小さな集落ではすでに『手癖の悪い』リタが家を追い出された話が広まっていて、助けてくれそうな人はいなかった。
結局なにも口にすることができなかったリタは、現在空腹をかかえて、行くあてもなく歩き続けていた。
それでもなんとなく森の中にある川の方へと向かったのは、せめて水くらい飲まないと動けなくなることを、今までの経験から知っていたからだと思う。
ムチで打たれた体の痛みには気づかないふりをして、ようやく川の淵までたどりついた。
小川に映りこんだ自分の顔はひどいものだった。
両の手のひらで水をすくい口元に運ぼうとしたとき、
「まさかとは思うけど、飲むつもりかい」
と面白がるような声がした。
驚いて振り返ったリタは、すくった水がこぼれて服にかかったことにもかまわずぽかんと……見とれた。
そこにいたのはいままでに見たこともないほど整った顔立ちの青年だった。
光をあびて輝く金髪はさらさら、瞳は透き通るような青緑色。
肌は白く全体的に色素の薄い男だが、けっして貧相には見えない。
(なんて美しい人なの)
言葉も出せずに固まっているリタを正面から目にした瞬間、男が眉を寄せたのを見て、リタは途端に自分のみすぼらしさが恥ずかしくなった。
(ひぃぃ……消えてしまいたい!)
あの美しい青緑の瞳に自分が映っていることを思うとひどくいたたまれない。
男が顔をしかめたのは一瞬のことだった。
それから彼はじっくりとリタを観察して、
「君の名前はなんていうの」
と尋ねた。
「……リタ」
それを聞いた男は少し思案するそぶりを見せ、
「なるほど」
というと、ゆっくりリタに近づいてきた。まるで小動物を怯えさせないようにしているかのような慎重さで。
リタは思わずしりもちをつく。小川の中に落ちたおしりがひんやりとしたことで、リタに恐怖心が戻ってきた。
「来ないで!私のことは放っておいて!」
男の足は止まることなく進んでくる。彼の靴は水すらはじきそうなほどぴかぴかとしていた。とうとうリタの前でひざを折った彼が顔を覗き込んできたので、リタは両手を胸の前で組んでぎゅっと強く握りこんだ。
「リタ……」
男が口を開いた瞬間をみはからって、その両手を思い切り前に突き出す。
(ねらうは心臓!)
「わっなにするの」
あっさりよけられてしまった。しかし意表を突くことには成功したらしく男はしりもちをついている。
そのすきにリタはなえている足を奮い立たせ立ち上がると、走り出した。
「あっ待って!」
すぐに男も立ち上がり追いかけてくる。
どうして逃げるのかリタにもわからなかったけれど、無我夢中で走った。
「何もしないよ」
「危ないって!」
「リタ、止まって」
走りながら声を上げる彼は息が上がっていない。
それどころか追いつこうと思えば追いつけるのにわざとそうしない余裕のようなものすら感じられて、リタはますますつかまってはならないという思いを強くした。
自分が追い込まれていることに気づいたのは大きな木を背にした時だった。
(もう逃げられない……)
それは正しかった。このときリタは自分の運命に捕まったのだから。
「足が速いね。ひさしぶりにこんなに走ったよ」
楽しかった、とでもいいそうなきれいな笑顔で言われて、リタは絶望した。
もう一歩だって動けやしない。なぶられるのを待つだけの獲物だ。
(こんな子どもなんの価値もない。行く場所だってもうないんだから)
そう、リタにはもう家がない。
だったら、この男につかまってどうなろうがもういいじゃないか、と。
あきらめがリタから瞳の輝きを奪った。
それを見てとった青年は、浮かべていた笑顔をすっとかき消した。彼の目が木の根元に座り込んだリタの全身を這う。特にむき出しになった傷だらけの足を。
(このひと……幼女趣味……?)
村の女たちが洗濯場で言っていた。男は『若い女』に『めっぽう弱くてみさかいがない』のだと。上流階級のなかには幼い子どもを愛玩人形のように扱う者もいるという。
すばらしく上質な仕立てとわかる服装のこの男が、間違いなく上流階級の人間であることは、ほとんど外の世界を知らないリタの目にも明らかだった。
(だって日に焼けてもいなくて、こんな上等な服を着た人、はじめてみた)
彼は一転、いたわる様な顔になった。
その顔はリタの記憶を呼び起こす。
働きづめでたまにしか帰ってこない父が、ときおりこんな顔でリタの頭をなでたからだ。
父を思い出し、唯一自分をかわいがってくれた存在を亡くした悲しみがぶり返してくる。
「なによ……食べ残しのパンくらいもらったっていいじゃない!どうせ捨てるつもりで地面に放り投げたくせに……わたしがこっそり拾って食べるのを、笑ってみていたくせに!」
怒りが目の前の、食べ物に困ったことすらなさそうな人に向けられた。
彼にとっては理不尽だろう。
「水でおなかをパンパンにしなきゃ夜だって眠れないんだ」
川の水だって今のリタには生きていくのに必要なものなのだ。
そういうと彼はリタの言葉から事情を察したのか絶句している。
空腹状態で、唯一口にできる水すら目の前のこの人のせいで摂ることができなったリタは頭がくらくらした。
「……僕の家においで、リタ。食べ物も飲み物もある。けがの手当てだってしてあげる。だから」
情けなくてたまらない。でもなんてあらがいがたい誘惑だろう。
(……たかが一食の食事のために身を投げ出したくなるなんて)
けれど、情けをかけようとするこの男の手をそのままとるのはくやしかった。
「だったらあなたの奥さんにして」
哀れな人間にやさしくするなら、鬱陶しく縋りつかれても最後まで面倒を見る覚悟が必要なのだ。保証が欲しい。捨てられないという保証が。
(父さん、なんで死んじゃうの。私には父さんしか、いなかったのに)
優しくされてあとでその存在を失うのはもう嫌だった。
土になじんだあのごつい手は、もうこの世から奪われてしまった。たったひとつしかないものを奪うなんて神様はなんて残酷なことをするんだろう。
ぼんやりしてきた頭で。リタはこのまま自分がいなくなっても誰も困らないのだ、と考えていた。
だったら自分の矜持を守ってここで朽ちてもいい。きっと森の獣が彼女の体を食べつくしてくれる。今の彼女が唯一役に立てることなのだったら、それも悪くない。
光を失ったリタの目に、青年はうろたえはじめた。
美しい青緑の瞳が空を仰いで。
……再びリタに向けられたとき、彼は驚くべき行動に出た。
真面目な顔でリタの前で片膝をついて礼をとったのだ。
そして騎士が姫君に忠誠を誓うがごとくていねいな仕草で、リタの目を見てそらさずに言い切った。
「わたしはアルヴェール公爵のエドワルド=アルヴェールだ。
リタ、どうかわたしの花嫁になってくれますか?」
九歳の少女は今度こそ気を失った。驚きと空腹で。
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