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「ナナちゃん……」
しばらくして、前を行く萌絵ちゃんが、溝を覗き込みながら初めて猫の名を呼んだ。呼ぶと言うより、喉から漏れるような声だ。
「そうだよ、もっと大きな声で呼んであげなよ。もしかして萌絵ちゃんを探してるかもしれないし」
近寄ってアドバイスしたが、萌絵ちゃんは首を横に振る。
「大きな声で呼ぶと、怖がる子なので……」
「そんなに怖がりなの?」
「見知らぬ他人が大声で呼んでも、そりゃあ怖がるでしょう」
二軒先の家の垣根の下を覗き込みながら、岡部さんは冷ややかに言う。あちゃーと思ったが、もう遅い。萌絵ちゃんは硬直したように立ち止まった。
「散歩に連れ出したわけでも、あなたの飼い猫でもないのでしょう。でも、妄想の猫じゃないのなら探しましょう。本当の飼い主は心配してるのでしょうから」
岡部さんは立ち上がって萌絵ちゃんを振り向いた。更に青ざめた萌絵ちゃんは、助けを求めるように僕を見る。
「えっと、いろいろありそうだけど、とりあえず探そう」
ぎこちなく笑った時だった。
さっき通って来た道の方から、けたたましい犬の声がした。
目を凝らすと、門のない家の庭先に繋がれている中型犬が、敷地内の庭木を見上げて吠えている。細いサルスベリの枝の先に揺れているのは、小柄な白黒の猫だ。犬に怯えて登ってしまったのだろう。
「ナナ!」
萌絵ちゃんが猫の名を叫ぶ。良かった、見つかった!
「枝から落ちたら怯えて更に遠くに逃げてしまいます。鈴木君、必ずキャッチしなさい」
先頭に立ち、岡部さんはズンズンその家に近づいて行く。ガレージに入り込み、繋がれた犬のすぐ鼻先で、猫が登った木の枝の、少し下に垂れ下がった枝先をぐっと掴む。
「落としますよ」
合図と共に思い切り枝を引っ張り、幹ごと折れるんじゃないかと思うほど彼女は木を揺さぶる。ビュンビュンしなった枝に猫は必死にしがみつき、萌絵ちゃんはあまりの唐突な展開に小さく悲鳴を上げた。
僕は僕で、ついに枝から宙に放り出された猫を全力で追い、縁石に躓いて転倒しつつも何とか手を伸ばしてその体をがっしりと抱き留め、そのまま地面を派手に転がった。
「ナイスです。行きましょう」
更に激しく吠えまくる犬から逃げるように、僕らはとにかく走った。いきなり猛烈なパワーを発揮した岡部さんに疑問符は沸きまくりだが、今はとりあえずこの案件を片付けるのが先だ。狭い十字路を二つ越えた辺りでようやくスピードを落とし、息を整えてから僕は萌絵ちゃんにナナをそっと見せた。
「君が探してた猫だよね。でも、君の猫じゃないんだろ? 見てたら分かる」
少し棘のある言い方になってしまったが、敢えて言ってみる。
恐る恐る手を伸ばし、まだ少し怯えている様子のナナを受け取ったあと、萌絵ちゃんは頷き、口を開いた。
「ごめんなさい。友達の猫なんです。今日初めて遊びに行かせてもらう子の猫で、さっき門を開けてうっかり逃がしちゃって……」
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