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「詳しく説明するとなると少しややこしい予備知識が必要になるから簡潔に言うけれど、霧羽さんの精神は今、整備されていない”設定世界の中”に囚われているわ」
玄武区画に隠れるように佇んでいる関係者以外立ち入り禁止が徹底された管理棟の一室。無骨な機材が囲んでいるのは、中央の人一人が収まるほどの大きさのカプセルだ。見た目は学園で利用している肉体乖離型拡張装置に酷似している。その中で七色は眠りについていた。
「通常、僕達が仮想の世界に意識を没入させる時、身体はポッドの中で眠りに近い状態で横たわっている。今のバナナさんの姿には重なる部分がある。でも、このポッドに似ているカプセルは内部の人間の意識を『設定世界』に導入する為のデバイスではない……」
「ああ、そっか。これは繋げて送るんじゃなくて、繋ぎ止める為のポッドなんだ」
恵流が整理がてらに並べた前提に答えを出したのは、恵流ほど予備知識を持っていない菖蒲だ。
「驚いたわね……まさしく正鵠を射ているわ。このポッドは、物語に見初められ、招かれた霧羽さんの意識を身体に繋ぎ止める為のデバイスよ。そして、霧羽さんに繋がる為の架け橋でもある」
それから幾つかの問答を繰り返す。
――肉体乖離型拡張装置とは異なり、この装置には設定世界との接続を切断する機能が備わっていない。
「このままだと、七色は……ずっと、帰ってこられないってこと?」
「それだけじゃないわ。このままいたずらに時間を費やせば費やすほど、霧羽さんの残っている部分まで連れていかれてしまう。最後は、彼女がここにいた痕跡まで綺麗さっぱり消え去る事になる。貴方の記憶からも、ね」
――七色が自然回復する可能性は限りなく低く、それどころか成り行きに任せた場合は”七色の何もかも”を連れていかれてしまう未来が待っている。
肉体のみならず人々の記憶からも失われたイリスの姿が恵流の脳裏を掠めていた。否応にも繋がってしまう。繋げてしまったとも言える。あくまで推測に過ぎず、手近な実例に乗っかっただけ。
恵流は自身を嗜めようとしたが、一度でも意識してしまったら止まらなかった。
イリスの状態は、七色の身に降りかかった災厄の果てなのか?
だとすれば、七色はイリスの後を追う形になってしまうのだろうか?
そして、そうなってしまった時。
その何もかもを奪われた何者かを救う手立てはあるのだろうか?
沙織の話を聞きながら、恵流は逸る気持ちを抑えるのに苦心する羽目になった。
「残念ながら、現状で此方から出来る事はないの。霧羽さんを取り返す為には、霧羽さんの意識を連れ去った未知の設定世界に乗り込んで干渉する必要があるわ」
沙織は七色が眠っているカプセルをそっと撫でて続ける。
「物語までの道筋はこのカプセルが知っている。既に察していると思うけれど、霧羽さんの精神と身体を繋ぎ止めているか細い糸を利用するの」
「分かった。さっそく向かおう!」
「お兄ちゃん。鶴来さんっていつもこうなのかしら?」
「普段は面倒くさいくらい臆病な兎なのに、慎重になるべき場面では向こう見ずの猪武者なんだ」
ほぼ直接的に非難されている菖蒲だったが、当の本人には些末な問題だった。
「時間がないんじゃないの? せっかく七色を助ける手立てを教えて貰ったのに、指を咥えて待ってるなんて出来ないよ」
「……それだけの行動力があって、どうして男装なんて手段を取るまでに拗らせていたのか甚だ疑問なのだけれど」
「自分の事となると兎――もう比喩じゃなくていっか。菖蒲はあれなんだ。あれと天才は紙一重って言った人がいるけど、僕もそう思う」
「どうせバカだよ!」
張り詰めていた雰囲気が弛緩していた。それをかぎ取った沙織が柔らかな声音を挿入する。
「焦らずじっくり考えて欲しいのよ。私が提示している方法には大きなリスクが伴うの。相手は未整備の設定世界……安全の保障なんて全くない。貴方まで帰ってこられなくなる事だって十分にあり得るわ」
構わない。寸分の迷いもなく即断が飛び出ようとしていた菖蒲の口を、恵流の片手が少し乱暴に塞いだ。
「貴方はそれでもいいのかもしれない。けれど、貴方がそうであるように貴方の喪失を”構う”人がいるでしょう?」
「それ、は……」
その問いかけに、菖蒲の思考には両親の顔が一番に浮かんだ。目の前であえかに寝息を立てている七色も、菖蒲が犠牲になる事があれば奈落の失意に身を焼かれるに違いないのは簡単に想像できてしまった。
「霧羽さんの存在が今日明日に食いつくされてしまうという事はないから安心して頂戴。だから、三日後にしましょう。その時、改めて貴方の選択を聞かせてもらう事にするわ」
急ぐなと窘められているのに即決するのは話が違う。今の菖蒲でも、その程度の思考は及んでいた。
「良い時間ね。そろそろここを出ないと始業に間に合わないわよ?」
とてもではないが、悠長に授業を受ける気分になれなかった菖蒲だったが――。
「日常を嚙み締めなさい。あらゆる意味でね」
もう二度と帰ってこられないかも知れない日々と、失われつつあるそこにあった筈の時間に浸る事を沙織は強要する。
無下には出来なかった。沙織という案内人の機嫌を損ねて入り口を潜れなかったら本末転倒なのだ。菖蒲は後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にしようとして、恵流が未だに沙織と対峙している事に気が付く。
「菖蒲は先に行ってて。僕はもう少し沙織と話があるから」
「……分かった。それじゃあ、教室でまた」
内密の話があるのだろう。菖蒲は疎外感があったが、恵流の意図を優先する。七色の件で頭がいっぱいだった菖蒲はこのあと教室で想像だにしない歓待を受けて涙目になるのだが、それはまた別の話である。
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