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「おつかれさん。大丈夫?」
ちこちゃんはそう言って寝ている私を覗き込んだ。
「水、飲める?」
ペットボトルにストローを差して口元に運んでくれる。
「大変だったね、七時間かかったんだよ」
扇子であおいでくれるちこちゃんを見て泣きそうになる。
旦那さんもお父さんもあっちに行ったまま帰ってこない。
「あっち見にいかないの?」
ペットボトルの水を飲んでから言うと
「あとでゆっくり行く」
ちこちゃんはそう言って目尻からぽろんと涙をこぼした。でも微笑んだままだ。
「どうして泣くの?」
「だって嬉しくて」
ちこちゃんに初めて会ったのは14歳のとき。挨拶より先に私が最初に言った言葉は、「お母さんじゃないから」。
あのとき、呆れ顔のお父さんが何かを言おうとしたのを制して、
「うん、じゃあ、ちこちゃんって呼んでね」
初めて会った十年前、彼女はそう言った。
最初の一年は口をきかなかった。中学の間は、彼女の作ってくれたお弁当を食べずに持って帰って捨てた。それでも毎日、ちこちゃんはバランスのとれた色とりどりのお弁当を作ってくれた。あの頃の私は、彼女がどんな気持ちだったかなんて考えたこともなかった。
高校生になって、そんな子供っぽい反抗的な態度をとるのはやめたけれど、ずっと彼女のことを『ちこちゃん』と呼んでいた。これまで彼女のことを「お母さん」と呼んだことはない。
そんな私に、彼女はいつも微笑んでくれた。お父さんに叱られたときは庇ってくれた。落ち込んだときには、部屋の前に温かいミルクティーを持ってきてくれた。
私はまだ、ちこちゃんに『ありがとう』も言っていない。十年間、そんな機会はあったはずなのに。
ごめんね、十年前のちこちゃん。
ありがとう、十年間のちこちゃん。
すっかり疲れて体を起こすこともできない。
ちこちゃんは、部屋に戻ってきてからずっと扇子であおいでくれている。お礼を言ってくれた旦那さんは、そそくさと部屋を出て行ってしまった。「いいよ」と私が言ったからだけど。
ちこちゃんと二人きりの部屋の窓から陽が差し込んでいる。背中から夏の日差しを浴びて暑いよね? でもちこちゃんの扇子はずっと私をあおいでいる。
貰ったペットボトルの水をこくんと飲み込んでから、ゆっくりと息を吸って私はちこちゃんに言った。
「ちこちゃんのことお母さんって言わないよ」
ちこちゃんは一瞬驚いた顔をしてすぐに笑顔になった。
「いいよ、今までどおりで」
ずっとずっと、どんなときも、どんな私にも向けてくれた笑顔のまま言うと、
「私、出産経験ないからわからないけど、本にはお腹へるって書いてあったけど」
そう言いながら、今度は心配そうに眉を寄せて鞄の中からプラスチックケースを出した。
私の大好物のお稲荷さん。何度も捨てたお弁当を思い出しながら、ちこちゃんの顔をしっかりと見る。
「ちこちゃん、お母さんって呼ばない。これからちこちゃんはバアバになるの。だから私もバアバって呼ぶから」
プラスチックケースの蓋を開けかけていたちこちゃんが一瞬固まる。
「・・バアバ? あの子の?」
ちょっと震えるような声を聞きながら、頷いた。
ちこちゃんの目尻からまた涙が落ちる。でも今度は微笑んでいなかった。
「ちこちゃんが嫌なら、大ママとか?」
彼女の涙に少し焦った私の声に、ちこちゃんはぶんぶんと首を振りながら言った。
「ううん、バアバがいい。あの子のバアバがいい」
ちこちゃんは今度はなかなか笑顔にならずに泣いている。
ベッドに寝たまま、ちこちゃんの手を握ってから
「ありがとう」
長い長い時間、心の中に溜めていた言葉を、ちこちゃんの顔をまっすぐに見つめて伝える。
ちこちゃんはやっと微笑んでくれた。
十年間、どんなに反抗しても酷いことをしても優しかったちこちゃんの微笑みに、消耗した体力が戻ってくる気がした。
「お稲荷さん食べたい」
そんな私の声に、あわててプラスチックケースを開けているちこちゃんのことを、またちこちゃんと呼んでしまう日もあるだろう。
でもきっと許してくれる。
「いただきます」
体を起こしてお稲荷さんにかぶりついたとき、廊下の奥の新生児室の方から、元気のいい泣き声と、旦那さんとお父さんがはしゃいでいる声が聞こえた。
〈 fin 〉
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