第三章 リアーネ=リンカイン

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 その日リアーネは久しぶりにガゼボへと足を向けた。  彼女には侍女のミーレンの他に一人護衛騎士がついていたが、このガゼボで過ごす時だけは少し離れた場所で待機していてくれる。大声をだせば聞こえる距離だ。  そこに誰もいないのを確認してから、リアーネは持ってきた籠から編みかけのレースをとりだすとドレスのスカートから落ちないように丁寧にひろげ、続きを編み始めた。  夢中になって続けていると、ふと手元に影が差す。  驚いて顔を上げたその先には、いまやオプスクルドとは蜜月関係を結ぶイニス国の王太子が立っている。 「少し話をしてもいいですか」  あの頃よりずいぶんと大人びた面差しと声で同席の許可を求めてくる。  少し離れた位置には従者兼護衛騎士のバレスもいた。  とまどいながらもリアーネが頷くと、シオンはリアーネからちょうどひとり分の距離をあけて座る。 「ここでたまにあなたを見かけたんだけど、話しかけていいのか迷っていたんだ」  ああ、ずいぶんと穏やかに話すようになったとリアーネは頬をゆるめた。リアーネとシオンの間には等しく同じ時間が流れたのだ。リアーネもふっくらした頬が少しそげ、女性らしさが出てきたと皆に言われることが増えた。  シオンはリアーネの膝に乗った繊細な模様を幾重にも重ねたレースを見て目を見張った。 「すごいな……  その言い方は以前とまったく同じ響きだったので、リアーネは涙がこぼれそうになる。 「おどろいた?」 「うん、とてもね」  リアーネはふふっと笑み崩れた。  急にシオンが立ち上がったので。リアーネもつられて彼を見上げた。 「あなたは約束を守ってくれたんだね」  彼はポケットから白いレースのハンカチーフをとりだし、リアーネに見せる。  それには見覚えがあった。  従者のバレスにたくさんの謝罪をされた日に、彼の鼻水をふいてやってと侍女に渡したものである。 「これはあなたが作ったものだよね」 とハンカチーフをなでた。それからリアーネの編みかけのレースを見て、 「今日はびっくりした。すごくきれいなレースだから」 と切なげに言った。  リアーネは大きく目を見開いた。  『何か作って』とねだられた日、自分は今までにない意匠のものでかれをびっくりさせたいと言ったのだ。 「シオン……記憶が……?」 「事故から一ヶ月後くらいかな。……全部思い出したよ」 「……なんで……」  言ってくれなかったの、と口に出しかけてリアーネは言葉を飲み込む。彼には彼の事情がある。ゆずれないと決めた事情が。 「リアーネ」  名前を呼ばれた瞬間、もう駄目だった。  立ち上がったリアーネの膝の上からレースがふわりと落ち、シオンがあわてて拾い上げそれを丁寧にかごに戻した。 「これが最後のお願い。少しだけ、……あなたを抱きしめたい」  リアーネはおずおずとシオンに手を伸ばし、その肩に手を置いた。  向かい合う二人の間にはこぶし二つ分の距離がある。きっとこれがリアーネとシオンの距離の限界なのだろう。  そのままシオンはリアーネの背中に両腕をゆるく回した。 「忘れてない。全部。会話の一つ一つも忘れないよ。あなたを好きだった自分のことも覚えてる」  そして顔を少し寄せて耳の中に吹き込むように、 「あなたの幸せを祈ってる」 と言うが早いか、リアーネから体を離しそのまま去っていった。 (ばか、シオン。私はまだ約束を果たしていない)  リアーネは『完成させてからびっくりさせたい』と言ったのに。  リアーネは再びレースを広げて、暗くなるまで無心でレースを編み続けた。  その一週間後、イニス国へと旅立つ王太子の荷物には大き目の箱が一つ加わった。  そこには上質なシルク糸をふんだんに使った花嫁のためのウェディングベールが入っていたのだった。  イニス国王子シオンとオプスクルドのシャルロッテ王女の婚約が発表されたのは、リアーネが彼と最後に会った日からまもなくのことだった。。  イニス国は共和制となり、王族は地位はそのままに国賓をもてなしたり公式行事を行うのみの象徴となるという。  オプスクルド王国はイニス国の王族に最大限の敬意を示し、三年間の婚約期間を経たのちにシャルロッテ王女を降嫁させることで両国の友好を築くと喧伝した。  ここにいたるまでの事情を知るのは、ごく一部のものに限られている。  クーデター直後から、イニス国の王夫妻と王女が蟄居と名のついた軟禁状態におかれていたこと、王太子であるシオン殿下がオプスクルド王国に身柄の保護を求めていたこと。  そして、シオン殿下がその間、幾度となくクーデター軍へとたびたび親書を書き送って交渉にあたったことなど……。ここにはオプスクルド王太子や、有能な彼の側近の尽力もあったようだが、それらの経緯が表に出ることはなかった。   馬車から見渡す帰国途上の景色は、とても美しい。  季節はまもなく新芽の頃を迎えようとしていて、たくさんの色にあふれていた。  まだ寒さと暖かさを行ったり来たりで、その寒暖差でときたま吹く強風の日にさえ、彼の心は不思議なほど凪いでいた。  居場所をなくし、無力感になすすべもなくひしがれていた若者の姿は、もうここにはない。 「いやー。王女様ほんといい子でしたよね」  バレスはすっかり以前の調子を取り戻している。彼だけが変わっていない気もする。 「王女ってどっちの?」  リアーネ王女?シャルロッテ王女?と聞かれバレスはやべぇと顔をゆがませた。 「シャルロッテ王女も可愛かったデス」 「……そうだな」  シオンはふわふわした印象だったシャルロッテのイメージが、がらりと変わった日のことを思い出していた。それはリアーネと別れの挨拶をする少し前だ。  久しぶりに会う婚約者のその姿はまだあまりに幼くて、シオンの心には罪悪感が生まれた。  こんなに幼い少女を、自国の民のために祖国から引き離す。割り切ったつもりでいたのに、罪悪感を感じた。 「わたしとの結婚は、嫌じゃないですか」 と聞くと、シャルロッテはとても驚いた様子で、 「なぜそんなことを聞くのですか?」 と首を傾けた。  そこには純粋な疑問の色だけが浮かんでいたから、シオンはなんと答えていいか戸惑う。 (そうだよな。王に命じられれば嫌もなにもあるわけない)  おそらくシャルロッテ王女は、まだ恋というものを知らないのだろうから。  年上なのにふがいない自分に、シャルロッテは陰り一つない笑顔を向けてきた。彼女が笑うと、空気がふんわりと温かみを増した気がした。 「わたし、アルドベリクお兄様から教えてもらいました。シオンさまには自国に守りたいものがおありになるのでしょう?そのためにわたしとの結婚に意味があるのですって」  シオンは驚いた。  なにも知らないわけではなかったのか。利用されるとわかっているのに、なぜかシャルロッテには屈託がない。 「シオンさまが大切なものを守るなら、わたしはシオンさまを守ります。そうすればみんなが守られるんだから、この結婚はとても素晴らしいものになると思うわ」  こんな小さな王女が自分を守ってくれるという。  ……民のためになら、と捨てた想いがあった。  自己犠牲なんて自分を憐れむような言葉で、切り捨てようとした恋が。  なのに…… (ぼくも守られる側だったのか)  シオンはできるだけシャルロッテに気に入ってもらえるようにやさしく笑った。 「わたしはあなたのこともお守りしたいと思っていますよ」  小さな王女はどういうこと?と疑問を浮かべた顔になったが、じきに考えることをやめたのか、「それはありがとう」と間の抜けたお礼を口にした。  近くで控えていたバレスが吹き出して笑い、それが王女の侍女や護衛にまでひろがっていくと、笑われたことにむくれていたが。  シオンの目にはやはり彼女は、まだ幼い子どもにしか見えない。  それでも、この王女の持つ資質は、まれにみる純粋さにある。  守りたいというのは自然に湧き上がった嘘偽りのない感情なのだった。 (リアーネ、きみを選べなくてごめん)  一度だけ、心の中でその名前を呼ぶ。  シオンはこれから新しい国を作るために、ようやく一歩を踏み出した。 「バレス、必ず三年でなんとかするぞ」  シャルロッテのためにも。  馬車の中でもらした王子に、バレスは、 「もちろんでしょ」 と即答した。
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