第一章 シオン=イニス

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第一章 シオン=イニス

 仰ぎ見る空は茜に染まって、あたりを優しい色合いで照らしていた。  この時間になると、白亜の王城は寓話の中に存在している別の次元にあるもののように思える。そこにいる自分もまた、別のなにものかになったみたいだった。  シオンがほんの数人の従者とこのオプスクルド王国に来て一ヶ月になる。それ以来、自国からの連絡は途絶えていた。  鬱屈するシオンを見かねた従者のバレスに勧められて、こうして人の少なくなる夕暮れに散歩をするようになったのも、ここ数日のことだ。  行動を制限されているわけではないけれど、国においてきたもののことを思うとあまり気は乗らない。しかし今日、彼の気が変わったのは自室のバルコニーからみえたあるものが気になったからだ。  たしかこちらの方だったと見当をつけて、勝手のわからぬ他人の庭を進んでいく。すると、だれかに呼びかけているような小さな声が聞こえた。  その声を頼りに、さらに庭園の奥へと進んでいくと、ようやくさきほどシオンの気を引いた光景が目に入る。  地面から二メートルほどの高さの木の枝。白い布がパタパタと規則的に揺れている。  そこからにょっきりのびた白い足。布が揺れているのは風のせいではなく、どうやら持ち主がぶらぶらとさせているからだった。 「リアーネさまぁ……。早く降りてきてくださいよう……」  侍女らしいお仕着せをきた女が、上を仰ぎ見て必死に懇願(こんがん)しているのが『リアーネ』なのだろう。  相手には侍女の懇願が耳に入っていないようだ。 「リアーネさま……!」  シオンは今にも泣きそうな顔で木の上を見上げている侍女を驚かせないように、ゆっくりと近づいた。 「わたしが君の主人と話をしてくるよ」  そこで初めてシオンに気がついたらしい侍女は、とたんに身体をびくりと震わせた。  顔をこわばらせ、 「……どなたですか」 と探るような目でシオンを見た。  どうやらこの場には護衛役のような存在がいないのだろう。忠義ものと見えて、すばやく木の前にたちはだかるように移動したのは、主を守ろうとするために違いなかった。 「私はシオン=イニスという。あなたの主を傷つけることはしないと誓うよ」  イニス……?とつぶやいて、名前にそれを冠することの意味に気づいたのか、絶句した。信じていいのか迷う素振りしている。  その間にシオンは侍女がいるのとは別の側に回り込み、迷いなく足がかりとなる位置を見極めながら木を登っていった。  シオンになら造作もないことだが、これをあの白いドレス姿で登ったのであろう少女はとんだじゃじゃ馬だな、と思いながら。  シオンが少女より少し高い位置にある丈夫そうな枝に手をかけた瞬間、 「あなただれ?」 と、少女が言った。  けれど彼女の視線はシオンではなく、相変わらず遠くの方に向けられている。 「わたしはシオンという。部屋の窓からあなたの姿が見えたものだから、気になって来てみたんだ。……なにを見ているのか聞いてもいいかな」  返ってくる答えはない。  シオンに自己紹介を求めておきながら、自分は名乗るつもりも質問に答える気もないらしい。かといって警戒してる様子でもない。  こんな風に自分に興味をしめさない人間は久しぶりだ。  腫れ物扱いされることにはうんざりしていたから、この反応は新鮮にすら感じた。 「リアーネ=リンカイン。なんで王女が木の上にいる」  推測した少女の正体を、わざと口にした。  敬称もつけずに呼び捨てて尊大な態度をとったのは、彼女の反応を引き出したかったからだ。  出自を示唆されて、彼女が初めてシオンに興味をひかれたように顔を向けた。  髪はオプスクルド王国ではあまり見ない夕闇を溶かしたような色。肌の色は白く唇は薄い桃色をしている。  ただし、いまはかたく引き結ばれて、にこりともしていなかった。  大きな瞳は髪と同じ色をしていたが、シオンを見つめてはいても、今はなにか別のことに気をとられているような気がした。  彼女がこの国の王女ではないことは明らかだ。シオンはオプスクルドの王女には会ったことがある。あの王女に姉妹はいない。 「あなただれ?」  さきほどと同じ質問だったが、今度はきちんと会話するつもりがあるらしい。  シオンは思わず表情をゆるめた。 「ぼくはシオン=イニス。君と同じ、この国の客人」  『わたし』から『ぼく』になったのは無意識だった。 「イニス?」 「そう。ぼくは安全なおりの中で待っているところだよ。自分の国がなくなるのをね」  リアーネはまじまじとシオンの顔を見た。興味をひくことができたのがわかって、胸が弾んだ。  それにしてもこうもまっすぐに異性の顔を凝視する王女というのはめずらしい。  シオンはますますリアーネに興味を持った。 「ぼくの質問にも答えて、リアーネ」  この国に来てはじめて生身の人間に接したような気がしていた。  いまさら王女様などと呼んでわざわざ壁をつくることもないだろう。  リアーネは気にした様子もなく、シオンを見上げてきた。 「木に登ってなにを見ているの?」  問われたリアーネの長いまつげがふせられて濃い影ができた。よく見ると、なかなかに風情のある美少女だ。  彼女はしばらくそのまま無言だった。  答えたくないなら答えなくてもいいけど、ともう少しでシオンは言いそうになった。答えを知るよりも、会話が終わってしまうのが嫌だと思ったのだ。  けれどそれより先に、震えたように唇が開いた。 「結婚するんですって」  彼女の見ていた方角に目とやると、そこには教会の尖塔が見えた。  それはあなたの想い人なのか?と言いかけたとき、視界の隅で動いたものがあった。  考えるより早く身体が動いた。 「リアーネさま!騎士の方に見つかってしまいました……!」  シオンが身を隠すのと、木の下ではらはらとふたりを見守っていた侍女が声を上げたのは、ほぼ同時だった。 (まるで間男だな……なんだこの状況)  木の上でじっと息をひそめながら、シオンは下の攻防を見守っていた。  ずっと下の方で、リアーネがきゃんきゃんとかみつくような声音で叫んでいる。  もう一つの声はかなり怒りをはらませたもので、凍てつくかのごとき冷たさであった。 「同じことを何度も言わせないでください。早く降りろといっているのです」 「あなたがそこにいるから降りられないのでしょ!婦女子のドレスの中をのぞくなんて『氷の貴公子』とあなたを崇拝するご婦人方がむせび泣くわよ!」  これがさきほどたそがれていた女の子と同一人物だとは。 (さっきの甘い空気返せ、詐欺師め)  なんにしろ『氷の貴公子』とは言いえて妙だ。  銀色の髪と碧の瞳で整った顔立ちの男である。  ちっとも親しみが持てる気がしないのは、下から向けられる視線が相手を貫けそうなほど恐ろしいからだった。あの視線をまともに受け止めて、平然と言い返している王女はすごいとシオンは思った。 「木登りするような女のドレスの中身に価値などありません。自意識過剰も大概にして下さい」  言いぐさがひどい、とあきれた。 「わたしの我慢がきくうちにご自分で降りてください。できないのなら幹を蹴飛ばして差し上げますが?」  王女をムシか何かと勘違いしている。  その場合、王女だけでなく王子という虫まで落っこちることになるのだが。  ぽんぽんと威勢よく言い返していたリアーネが返す言葉に詰まったのも、頭上にいる間男を意識したせいかもしれなかった。  どうやら彼女もまたシオンと出会ったことを秘密にしておきたいのだと察して、シオンはうれしくなった。  観念したリアーネは、ずりずりと幹にしがみつきながらおり始めた。とんでもない王女もいたものである。  上質なドレスの生地はたぶんもう使い物にならないだろう。  それにあれではドレスがまくれあがり、さらしてはならぬ足もきわどいところまで丸見えのはずである。逆にシオンの方が落ち着かない。  さすがの『氷の貴公子』も、泡を食ったようだ。  王女の痴態が見えないように、従事していた騎士に鋭い視線をあびせて背中を向けさせ、自らも手のひらを顔に当てた。  だが見ないようにしていると言うよりは、頭を抱えているといったように見える。  彼はリアーネが無事地に足をつけたのを見計らい、すばやく彼女の腕をつかんだ。 「まったくあなたという人は!」  腕をつかまれただけで一切の動きを封じられたようにおとなしくなったリアーネは、さきほどよりずいぶんと幼く見えた。 「ライヴァン!アルお兄様には言わないで」  男は鼻で笑った。 「私は忠臣なので隠し事はしない主義です。それにあなたはアルドベリク殿下の前では大変殊勝でおいでだ。わたしごときの言葉では反省すらしてもらえないようなので、致し方ありません」  言うが早いか、問答無用に王女を連行する。  立ち去る前に氷の貴公子は視線をあげた。目があったような気がしたが、気のせいだったかもしれない。
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