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1.会社の倒産にあらがおうとしたら、トンデモ展開になった件。
「───は?今、なんて……?」
思わず目を見開き、かすかに首をかしげて相手の顔を見つめる。
言われた言葉を聞き取れなかったわけじゃない、あたまがそのセリフの意味をかんがえるのを放棄してきただけだ。
「だから、『君が私の会社で社員として働くというのなら、譲歩しようじゃないか』と言ったんだよ、鷹矢凪社長」
こちらに向けて笑みを浮かべたまま、そう言ってくるのは、我が社の大手取引先であるイーグルスター社の社長だった。
小切手決済のメインバンクと大手の顧客複数社がそろって破産手続きに入ったせいで、今のうちの会社は資金繰りの面で多大な影響を受けてしまっていた。
とはいっても、会社の業績としては決して悪くはないし、ほかにも決済用の口座はある。
けれど、たまたま決済日が重なったせいで、うまく落とせない小切手が出てしまった。
それが今いるイーグルスター社への支払いだった。
会社にとって、小切手の振り出しで不渡りを出すだなんて、いちばんの信用問題だ。
だから目下の問題は、このイーグルスター社に支払いを猶予してもらえるよう、交渉することだった。
とはいえ、相手はこれまで比較的良好な関係を保ってきた会社で、こちらの内情もある程度知っているのだから、そんなにむずかしくはない交渉だと油断していたのかもしれない。
しかしそこで突きつけられたのは、想定外の要求だった。
「それは……どういう意味ですか?」
社員として働けというのは、ほかの社員ならば額面どおりに受け取って、ヘッドハンティングだろうがなんだろうが、転職でもなんでもすればいいだけの話だと思う。
でも俺の場合は、これでも会社を背負う立場の『社長』としてこの場にいるわけだ。
ならばその社長ではなく一社員としてこの会社で働けという言葉は、『会社としてイーグルスター社の傘下に入れ』というものかもしれないし、『責任を取って社長の座を退け』という人事的な意味を指すものかもしれなかった。
「別に、額面どおりに受け取ってくれてかまわないんだぜ?君には、社長業のかたわらにうちの会社で働いてもらう。その切れ者と評判の手腕で、うちの社員たちを教育してもらいたいだけさ」
俺とおなじく、若くして会社を大きく成長させたやり手社長と呼ばれ、俺とはちがって人好きのする柔和な笑みを常に浮かべた彼は、とんでもないことを言い出した。
俺が、こいつの会社の社員として働く、だって……?
その真意はどこにあるんだろうか?
その提案の内容が本当に言われた言葉の意味そのままだとしたら、ある意味で社員教育にはなるかもしれないが……。
「別に、ずっとここで働けとは言わないさ。せいぜい君の会社がトラブルを乗り越えるまで、支払い猶予を求める期間だけでいい」
まるでなんてことのない話のように、言われるけれど、それはむずかしい話に感じる。
「人材として評価いただいたのは光栄ですが、そのトラブルを乗り越えるためには、社長が己の会社を不在にするのはいかがなものかと思いますが……」
だってそうだろ、社長業はある意味で利害関係者を中心に、アポイントメントをこなしていくのがメインの仕事だ。
一般的な事務作業なんて、ほとんどないに等しい。
「なら、君の仕事の定時はいつだ?その時間以降でかまわないよ。なにしろうちの会社は、夜型の人間が多いからね」
「………………」
真意を探ろうにも、相手の笑顔には微塵も隙は見あたらなかった。
目の前で余裕のある笑みを浮かべたままのこの男は、イーグルスター社の社長で、名を鷲見勇征という。
茶色の髪をツーブロックにし、前髪を横流しのアップバングにしている彼は、その髪型から受ける印象もあいまって、どことなくスポーツマンっぽさがある。
それも俺をうわまわる高身長とガタイの良さで、いっそラガーマンあがりと言われたほうが納得がいくくらいだ。
しかし、ともすれば眠そうにも見えるタレ目には男の色気をまとい、ただのスポーツマンとはあなどれないほどの知性の光が宿っていた。
むしろプレイヤーというよりは、監督のほうが似合うタイプだ。
実際、会社の運営においては、業績は上向きに推移しており、かなり安定していることをかんがみれば、経営者としても優秀なのは言うまでもない。
つまり、それらの印象をトータルすれば『油断ならない相手』という評価になるわけだった。
俺の名前が鷹矢凪冬也で彼は鷲見勇征と、どちらの名前にも猛禽類の名前が入るからなのか、はたまた年齢が近いからか、経済誌なんかでは勝手に鷲見社長と俺とをライバルあつかいされることもあったけれど。
実のところ俺は、これまでそう思ったことはなかった。
だって相手は取引先の会社の社長であって、顧客の奪い合いをしなくてはならない同業他社のそれではない。
取引相手ならば、先方の会社の経営が安定しているならばそれに越したことはないし、どちらが上だとか下だとか、社長としての自分の経営手腕と比較する必要なんてなかったからだ。
……まぁ、興味がなかったと言ってしまえば、それまでなんだけれど。
「オレとしては数少ない同年代のライバルなんだ、君にはとても興味があるのさ」
だけど、どうやら相手のほうは、この俺に興味があるらしい。
それは単なる社交辞令かもしれないから、真に受ける必要はないとは思うけれど、それにしてもさっきから微妙に距離が近くないだろうか?
「───わかりました、それで今回の不渡りを不問にしていただけるのなら」
「そうか、それはうれしいな。ではさっそく明日から来てもらおうか、冬也くん」
にっこりと、さらに笑みを深めた鷲見社長は、俺の肩に手をかけるとグッと引き寄せてくる。
「承知、しました」
了承したとこたえつつ、軽くあたまをさげる。
それにしても、いきなりなれなれしくなったな、コイツは。
さっきまで俺のことを『鷹夜凪社長』と呼んでいたくせに、いきなり『冬也くん』と下の名前で呼びはじめるとか、なにをかんがえているんだろうか?
これがビジネスにおける利害のことであれば、相手がどう計算をするのか、どのような感情を持っているのか、外的環境や内的心理を冷静に分析し、それに対応するための最適解を導き出せる。
そうして相手がこちらの望むような選択をするよう誘導するのは、お手のものだった。
だけど、それが単なる相手の気持ちを推しはかるとなると、別の問題だ。
冬也にとって───俺にとっては最も苦手と言ってもいいくらいのことで、これが原因でかなりの痛手を負ったのは、まだ記憶に新しいどころか、大変生々しい傷痕となっていた。
一瞬、つい先日こちらの手もとから去っていった、秘書と双子の弟の顔が浮かびそうになり、あわててそれをふりはらう。
そうしなければ、またあのときのように、大きな喪失感にゆらいでしまいそうだったからだ。
そのふたりのことは、大切にしたい、やさしくしたい、そういう気持ちをたしかに持っていたはずなのに、どうすれば表現できるのか、それがわからなくて。
気がつけば言葉足らずの己のまぎらわしい言動により誤解を重ね、ふたりから愛想を尽かされて、出ていかれてしまった。
───まさに、自業自得。
いくら自分の不器用さや、その原因が家庭環境にもあったとはいえ、弁護のしようもない。
「どうしたんだい、冬也くん?やはり私の下で働くなんて、君のプライドがゆるさないのかい?」
「いえ……そんなことはないですよ、鷲見社長」
そうして物思いにふけっていたところに声をかけられ、ハッとなる。
あわてて取りつくろったほほえみを浮かべ、ただ少しぼんやりしていただけだといいわけをする。
相手がどう思ったかまではわからない。
ただいつもより、相手の目もとに浮かぶ色に剣呑さが増した気がした。
しかし実際に自社との取引で相手に迷惑をかけている以上、相手の要求を呑むしかほかに選択肢はなかったのだった。
───こうして俺は、自分の会社の立て直しを図りつつ、当面のあいだ取引先である鷲見社長の会社でも働くことになったのである。
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