マリッジ・ディープブルー

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私は基本的に独りでいたい人間である。どれだけ親しい相手でも、丸一日誰かと共に過ごすというのは苦しい。陸に上がった魚みたいに、息が詰まってしまうのだ。口をパクパクさせるしかなくなってしまう。 だから私は全く結婚には不向きであった。結婚して誰かと寄り添うなどということは、墓場どころかこの世の地獄とさえ思う。世の中の男は何故そんなところに喜んで収まっていくのだろうかと私は訝しむのだが、しかしよくよく冷静に周りを見れば、明らかに尋常でないのは私の方なのだ。中学から親友の敦彦も遂には結婚して、彼とはそれから疎遠になってしまった。親友といったって家族には敵わない。大学時代の友人も多くは結婚した。嫌々に参加する職場の飲み会でも、毎度のように何故結婚しないのかと聞かれる。結婚するのが当たり前なのだ。国民の三大義務は、勤労と納税と教育と。しかし結婚というのは、ある意味もっと大きな、例えば人類の義務と言うべきものなのかもしれない。 皆結婚して、結婚という牢獄に閉じ込められて、そして忙しそうにしている。外からそれを眺めて、自由な私は孤独である。どこにでもでも行ける。しかし行くところもない。ならば牢獄の中であくせくしている方がよっぽど有意義なようにも思えるが、牢獄は内から外に出ることができないのと同様に、外から内へ入ることもまた容易でないのだ。 会社の近くに公園があって、昼休みになると私は必ずそこに逃げ込む。公園といってもビルの隙間を埋めるような狭い空き地に、ベンチと祠があるだけの場所だった。しかし、そこは私にとって、独りになることの出来るオアシスのような場所だった。ベンチに座るとやっと息の吐ける思いがする。孤独は私を優しく癒してくれる。街路樹を隔てた向こう側には人間の世界があって、私はそれをぼうっと眺めて過ごす。上司に連れられて昼食に向かうサラリーマンの群れ。コンビニの袋をぶら下げて歩く看護師。大きなスポーツバックを背負う若者。皆それぞれ何処かちゃんと向かう場所があって、私はそれを羨ましく思う。私にはどうしても本当に向かうべき場所などないような気がするのだ。 会社での私は、ひどく緊張している。オフィスの中には沢山の社員がいて、私もその一員たるに相応しい行動をしなければならない。会議で売上の見込みなどについて報告しながら、本当はそんなものどうでも良いと思っていることを決して悟られぬように気を遣う。幸い私は嘘が得意なので、細心の注意を払いながら、景気の動向や顧客行動の変化についてさも関心があるかのように滔々と語ることが出来た。しかし実のところそんなことはどうだって良いのだ。景気が良かろうが悪かろうが、私の孤独には何の影響もない。たとえ大地震があろうと、戦争が起ころうと、やはり私の孤独には関係のないことのように思える。どうでも良い世界の中で、私は内なる孤独を守りながら、上手に生きていた。 しかし、その愛すべき孤独の生活は、彼女と出会ってしまったことで全く変わってしまうことになった。彼女はアンナという名前を待っていた。アンナは会社に派遣社員として出入りしていた。初めて彼女と目が合った時、私は真夏の激しい夕立に打たれたみたいに立ちすくんでしまった。 第一に、アンナは物凄く魅力的な瞳をしていた。彼女は一般的に美しい部類ではあるものの、取り立てて美人という訳ではなかった。しかしマスクをした彼女の目元だけは、この世のものとは思えないほどに美しく感じられた。 第二に、これも彼女の瞳に関係することなのだが、アンナは私の孤独を見透かしているような視線を投げかけた。それはまだ他の誰にも露呈していない私の秘密の場所に直接差し込む一筋の光線みたいな目だった。 私はアンナと目が合う度に、この二つの感情を喚起されることになった。すなわち、喜びと不安である。喜びは私の網膜で像を結び、不安は私の網膜を突き抜けて私の孤独を貫いた。 アンナが職場に来て一週間ほど経って、彼女の歓迎会が開かれることになった。当然、私も参加することになっていた。元来私は孤独を愛しているが、決して非社交的な人間ではない。得意の嘘で固めた私の人格は他人からはむしろ社交的であるとさえ見えるかもしれない。人間が水の中で息が出来ないにも関わらず水泳を楽しむように、私とて社会に上手く溶け込むことが出来る。 ただ、時に息継ぎが必要だというだけである。 しかし、この時ばかりは私も参加するのを躊躇った。アンナの視線の前で私は今までのように振舞うことが出来るか自信がなかったのだ。私は当日わざと余計な仕事を入れて、歓迎会に遅れて行くことにした。アンナの前に出る時はいつも以上に慎重に、大きく息を吸って臨まなければならない。そうして独りオフィスで夜の時を過ごしていると、膨らんでいくのは私の肺胞ばかりではないようだった。むくむくと湧き上がるのは、期待であったろうか。そのままオフィスチェアに座っていたら、今にも宙に浮かんで飛んでいってしまうような気さえした。 私は遂に観念して宴席へと向かった。店の扉を潜ると客席は方は開けていて、既に酔っ払った同僚が私を見つけて大声で呼んだ。 「アンナちゃんは、お前がタイプらしいぞ。」 TYPE。タイプライター。対符。私は困った顔をしながらアンナを恐る恐る見た。彼女が恥ずかしそうに視線を外す様子から、タイプというのは彼女が私に好意を持っているという趣旨であると理解した。私は息を呑みそうになったが、寸前のところで腹に力を込めてそれを止めた。タイプというのを鵜呑みにしてはいけない。あくまで一般的な傾向として、私に似た人間が好きだということである。あるいは、あくまで同僚の中では私が一番好みに合っているというだけのことである。 「それセクハラでアウトだから。」 私は冗談ぽく同僚の言葉を華麗にスルーして、息の代わりにビールを呑んだ。私はプロの独り者であるから、恋愛の予感に対する危機察知能力には十分長けているのだ。リスクは小さな内に摘むというのが、鉄則である。私は若い頃からそうやってありとあらゆる恋愛の矢を避けてきた。恋のキューピッドなるもの存在するとしたら、私はさながら好敵手であっただろう。 そもそも、人間の男女というのは何故こうも恋愛をしたがるのか、私にはやはり理解できないのだ。ひょんなきっかけで直ぐに好意を持ったり、付き合ってセックスしたり、遂には結婚まで決めてしまう。だから私は殊に恋愛に対しては慎重に対処するようにしていた。 しかし、この日は思いのほか酒が回った。アンナを前にして私は自然と口数が少なくなり、代わりに酒を飲む量が増えていた。私は飲んでも顔に出ないタイプなので、きっと他の誰にも気付かれてはいないだろうが、酩酊は私の敏感な危機察知能力を確実に麻痺させていた。 宴会が終わり、それぞれ駅に散り散りになったところで、私はアンナと二人並んで歩いていた。 「私もこっちの駅なんです。」 アンナは言った。アルコールの所為か、彼女の瞳は平素に増して潤んで美しく見えた。私はもう黙るしかなかった。口を開けば私の内なる孤独をきっと吐き出してしまっただろう。しかし黙り続けているには、駅までの距離は長過ぎるように感じた。 私は焦れていた。そして焦れた末に、こともあろうか気づくとアンナの手を取っていた。それは悪戯に頬を撫でる夏の夜風に誑かされたというほかないことだった。酔いに任せて女性の手を握るなど、私は独り者としての矜持を完全に失ってしまったようだった。 アンナは少し驚いたように一瞬私の方に視線を放ったが、黙って私の手を握り返した。私は手に彼女の温もりを感じた。夏の高い気温と比してさえ、人間の体温とはかくも熱いものなのだと私は思った。熱は私の血流に乗って全身に伝わり、じわじわと私を内側から溶かしていく。まるで細胞の一つ一つの皮膜が破れていくような気分だった。きっとこのままいくと私は死んでしまうのだろうと思った。しかしそれならそれで良い。もう何がどうでも良くなってくる。今や世界に対する私の無関心は私の中にまで入り込んできていた。 真夏の夜に完全に溶け出してしまいそうになったその時、ぼんやりとした視界に地下鉄の入り口の燻んだ光が見えた。私は寸前のところで我に返って彼女の手を離した。私は手をポケットに隠して、不恰好に階段を降った。幸いにもアンナは私と逆方面の電車だった。彼女を見送りながら、私はふっと息を吐いた。ようやく独りになれた。電車が離れていくにつれて、体温も冷めていった。 私は独りの静謐とした住処に戻ると、先ほどまで自らがどれだけ危険な状態にあったかを知った。彼女の視線に晒されて、手に触れて。私は孤独を捨て、すなわち私自身を捨てようとしていたのである。孤独とは私そのものである。 人は付き合う友人や恋人によって、容易に変わってしまう。もし私が他の誰かに僅かその一部でも心を明け渡したならば、きっと私は違う人間になるだろう。しかし、相対的な関係の中に生じる自己は結局のところ虚像に過ぎないのだ。真に実のある自己とは、孤独の中にしか見出せぬものなのである。 シャワーを浴び、ウォーターサーバーから冷たい水を飲んで、そうしてようやく落ち着きかけてきたその時、携帯電話がブルっと震えた。着信はその後断続的に続く。誰かがアプリでグループを作り、何かメッセージを打ったのであろう。最初の振動がそれで、後に続くのは参加者たちの応答である。私はこれを余震と呼んで恐れていた。孤独の城の中にあって、スマートフォンだけは外界に通じる鬼門であった。 私はスマホなど持っていたくもないのだが、スマホ無しには生き難い当世である。いつも誰かと繋がっていなければならないというのは、人間社会の宿命なのだろうか。もはやスマホ無しにはには仕事もままならないし、何より私生活においても至極不便である。現代の清潔なデジタルの世界は、ささやかな孤独の闇をも飲み込もうとしていた。 余震が止んで、私は恐る恐る画面を開いた。緑の光はまるで魔の沼のようである。そこには宴会の参加者のグループが出来ていて、私はお決まりのスタンプを打った。ありがとうという意味の、シンプルで、なるべくメッセージ性の少ないものを選んだ。それは必要に迫られた一連のコミュニケーションのピリオド記号だった。 画面を閉じようとすると、私はふと何かやり残したような気がして指を止めた。そしてメッセージをスクロールして戻ると、そこにはアンナのものがあった。アイコンは何処か外国の街の風景の中に彼女が後ろ向きに映っている写真だった。私はまた手の平に熱が広がっていくのを感じた。キューピットの矢は毒を含んでいたようだ。ギリギリのところで躱したつもりが、実のところ確実に私を死に至らしめようとしていたことに気づく。時は既に遅し。毒は全身に回って脳を麻痺させていた。私はゆっくりとアンナの後ろ姿に指を乗せる。たったそれだけで、私はアンナと繋がってしまう。あなスマホとは恐ろしきかな。私は墓場への扉を自ら開いてしまったのだった。
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