第三章 資本主義の未来

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 アディーナは、五番街にある「セント・レジス・ニューヨーク」に向かっていた。自称CAI特別捜査官のトム・ヘイワードが、待ち合わせ場所として指定してきたのは、百年以上の歴史を誇る老舗ホテルだった。しかも、あのティファニーのデザイナーが手掛けたスイートルームだ。一泊九千ドル近くする部屋で、司法取引の交渉をしようというのか……馬鹿げている……。アディーナは、金銭感覚のない提案に腹が立った。  アディーナがフロントで用向きを告げると、専属の客室係が出てきて、1403号室に案内された。ティファニーブルーの壁紙と真っ白でモダンな家具が眩しかった。アディーナは、リビングに通され、ソファを勧められた。 「しばらくお待ちください。お飲み物は何がよろしいでしょうか」隙のない身のこなしで客室係が尋ねる。 「ミネラルウォーターを。ガス入りでね」 「かしこまりました」  客室係は、飲み物を持ってすぐに戻ってきた。アディーナの前にミネラルウォーターを置き、その横にオレンジジュースを二つ置いた。オレンジジュース? しかも、二人分? 交渉相手は、トム・ヘイワード一人ではないのか……。アディーナが怪訝に思っていると、スーツ姿の東洋人が現れ、おもむろに名刺を差し出した。 「アディーナさん、お待たせしました。レイカ・ホールディングスの神谷万福と申します。先日、CEOの結婚を機に、財前ホールディングスの社名を変更しました。よろしくお願いします」  流ちょうとは言えない英語だが、男が伝えようとしていることは、なぜかアディーナの頭の中ではっきりとイメージできた。男はCEOの夫で、かつ社員らしい。万福との会話は、まるでテレパシーのようで不思議な感覚だった。 「レイカ・ホールディングス? カミヤ? 私は、トム・ヘイワードと面会の約束をしたはずですが」  アディーナは警戒感を露わにしたが、万福は、リラックスした様子でソファに座り、にこりと笑った。 「ヘイワード氏の役目は、あなたと面会を取り付けて終わりました。ここからは、僕が交渉相手です。といっても、こちらの意図を押しつけるつもりはありません。これは、あなたの家族と会社、そして僕の愛する人と彼女の会社を守るための交渉ですから。金融市場の将来にも大きな影響を与えます。じっくりと話し合い、正しい結論を出しましょう」  話し合って結論を出す? 既に結論は用意されていて、条件闘争しか許されないとばかり思っていたアディーナは拍子抜けした。 「ハリス・バーグマンを追放すれば、ビルとジョセフの量刑を軽くするとヘイワードは言っていたけど、それも話し合い次第なの?」 「あっ、それに関しては、その通りなのですが……」万福は、慎重に言葉を選ぶ。「ハリスさんを追放すれば、ドラゴンファンドで後継争いが起こります。それを防ぐには、大株主であるアディーナさんがCEOをやるしかない。しかし、運用のエキスパートであるビルとジョセフは不在です。ライバルはここぞとばかり、ドラゴンファンドのポジションを奪いに来るでしょうね。それは、市場の混乱につながる……あなたには援軍が必要だ」 「どうしろと?」アディーナは、万福の意図を測りかねた。 「レイカ・ホールディングスと手を組みませんか?」  そういうことか……。私の弱みにつけ込んで、ドラゴンファンドを乗っ取るつもりなのか。アディーナは、猛烈に腹が立ってきた。 「ドラゴンファンドのポジションを狙っている人間が、どうやら目の前にもいるようね……」  万福は、アディーナの皮肉たっぷりの発言を受け流して提案を続けた。「もっとも、手を組むのは、ビルとジョセフが復帰するまでの期間限定です。お二人が前線に戻れば、あなたを含めて三人で共同経営すればいい。レイカ・ホールディングスは一時的な援軍とお考えください。その点は、契約書に明記するつもりです」  馬鹿なのか、この男は……アディーナは呆れた。そんな提携内容では、レイカ・ホールディングスに何のうま味もないではないか。そうか、途方もない企てを隠しているのかもしれないわね。なんて油断のならない男なのかしら――――。  アディーナは気を引き締め、万福を睨みつけた。
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