第一章 麗華と万福

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第一章 麗華と万福

 丸の内にそびえ立つオフィスビルの最上階でエレベーターを降り、神谷万福(かみや・まんぷく)は「ど派手な看板」を探して廊下を進んだ。磨き上げられた窓からは、皇居が一望できた。 「主よ、素晴らしい眺めをありがとうございます」万福は十字を切ってさらに進み、フロアをちょうど半周したところで足を止めた。金ぴかのプレートに「財前ホールディングス」と漆黒の切り文字が施されていた。  勤め先の信用金庫には既に退職届を出した。財前ホールディングスに採用してもらえなければ、無職である。万福は、緊張してインターフォンを押した。 「はい、財前ホールディングスです」男が応答した。 「財前CEOと面接の約束があります。神谷と申します」 「ああ、神谷さん、お待ちしていました。どうぞ、お入りください」  電子音がしてガチャリと鍵が開いた。一流ホテルのラウンジと錯覚するような豪華な調度品で飾られたオフィスが、万福の目に飛び込んできた。金融機関にはお決まりのモニターやスチールデスクはなく、社員の姿も見当たらなかった。 「ここは本当にオフィスなのか……」万福が戸惑ってきょろきょろしていると、「目の前のソファにお座りください」と声を掛けられた。髭をたくわえた中年の男がひとり、重厚な木製のライティングデスクでパソコンをいじっていた。  男はおもむろに立ち上がり、隣にあるバーカウンターに移動した。あつらえたとしか思えないピンストライプのスリーピースを上品に着こなしていた。カウンターの背後にはさまざまな食器がずらりと並んでいた。どれも高価そうな代物だ。 「きょうは一七〇〇年代のマイセンにしようかな」男は無造作にティーカップを取り出し、慣れた手つきでお茶を入れた。 「お待たせしました。CEOの財前栄雅(ざいぜん・えいが)です」男は名刺を差し出した。ベゼルにダイヤモンドがちりばめられた腕時計が左腕で輝いていた。 「神谷です。本日はよろしくお願いします」万福は、起立して深々と頭を下げた。 「お呼び立てして恐縮です。父上はお元気ですか?」財前栄雅は、優雅に紅茶をすすりながら尋ねた。 「父がご迷惑をおかけして申し訳ありません。返済を待っていただいたおかげで、最近はすこし体調が良いようです」 「あなたの採用が決まれば、さらに猶予するつもりです。活躍次第では、返済を免除することだって考えないわけじゃない」 「えっ」万福は耳を疑った。「免除とは、つまり返済しなくてもよいということでしょうか?」 「そういうことです」栄雅は、にこりと笑った。 「財前さん、ありがとうございます。全力を尽くします。ただ、電話でもお話したとおり、私は神に仕える身です。神の教えに背くような商売に手を貸すことはできません」 「日本は法治国家ですよ。ルールに従って商売をしていますから安心してください。神谷さんは、想像したとおりの好青年ですね。なんというか、優しそうなオーラを感じます。私が探していた人物像にぴたりと当てはまりますよ」 「恐縮です。合格したと受け取ってよろしいのでしょうか」 「いえいえ、面接はこれからです。しかも、面接官は私ではありません。お呼びしたのは、面接の注意点をお伝えしたかったからなのです」  万福は、怪訝に思った。トップであるCEO以上にふさわしい面接官がいるのだろうか。 「面接官は、誰なのでしょうか」 「娘です。財前ホールディングスの唯一無二の社員で、かつファンドマネージャーの財前麗華(ざいぜん・れいか)が面接官です」 「お嬢様が…… 唯一無二の社員ということは、財前ホールディングスは財前さんとお嬢様のふたりで経営しているということですか?」 「そうです。期間限定で人を雇うこともありますが、基本的に正社員は麗華ひとりです。娘が投資戦略を全て決めています。まだ大学生、いや高校生だったかな。学校は行っていませんけどね。いずれにしても、年齢が年齢なので、私が表向きCEOをやっているわけです」  万福は唖然とした。財前ホールディングスは数年前に彗星のごとく現れ、空前の利益をたたき出していた。ヘッジファンドのスター的存在だ。たったひとりの少女がコントロールしていたとは信じられなかった。 「では、神谷さん、いまからすぐここに行って面接を受けてください。私からの注意事項は二点です。その一、犬に嫌われない。その二、麗華に逆らわない。以上です。幸運を祈ります。私はこれからオンラインミーティングがありますので、これで失礼しますよ」  財前は、意味不明な忠告と面接会場の住所を記したメモを残して別室に消えた。万福は、財前の背中を見送り、メモを見た。 「えっ、軽井沢?」
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