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基地へ戻った一斉は真っ先に七於の姿を探した。 危なげなく着陸した後、見ず知らずの年若い整備員の手を借り機体から降りる。整備員へ機体は一斉の専用機で呉松整備班へ預けるように伝えると、彼は幼さの残る目をにわかにきらめかせて元気よく敬礼して応えた。 機体を任せてあちこちに止められた様々な戦闘機の間を縫い、七於の姿を探す。 基地を狙い爆撃を行ったグラマンの数はそれほど多くはなかったはずだ。けれど目の前の被害状況は一斉の予想を超えていた。 既に地上要員たちや先に帰投した搭乗員たちが消火活動や後片付けに勤しんでいるが、まだあちこちから黒い煙が空へ昇っているし、チラチラと炎が赤く舞うのが見えた。 建物やいくつかの機体は爆撃を受け地面も機銃で抉れているが、サッと目を走らせ耳をすました限り負傷者の数はそこまで多くなさそうだ。かといってその中に七於がいないとは言いきれない。 焦る気持ちから小走りで駆けていると見慣れた後ろ姿が視界に飛び込んできた。 「っ、七於っ!」 名を呼ぶとバッと勢いよく振り返った七於が一斉の姿を捉えた。 「一斉!」 叫んだ七於が笑顔を溢し駆け寄ってくる。その胸の中に飛び込むと七於はキツく抱きしめ受け止めてくれた。愛しいその胸にぎゅう、と顔を押し当てどちらからともなく身体を離す。 「良かった……おかえり、一斉」 安堵したように柔らかな声音で告げ笑みを浮かべた七於の顔を見て、一斉は胸に熱いものが込み上げるのを感じた。 耳にした不吉な遠雷のような敵機のエンジン音が頭の中で反響し、ああ、俺たちは戦場で生きているのだ、とふと思う。 俺も七於も、今こうして生きていることが奇跡なのだ。 どちらかが先に死ぬことなど、当たり前のようにすぐ隣にあるのだ。 忘れていたのか、目にしないように背けていたのか、不意に当たり前の残酷な現実を再認識して一斉は心臓を鷲掴みにされたような気分になった。 「ああ、ただいま。七於」 ぎこちなくなってないだろうか。抑えきれない感情が声と表情に溢れているに違いない。 好きだ、七於。 今すぐにでもお前の全てが欲しい。今日終わるとも知れない、その尊い命をこんなにも愛している。 ……俺の全てもお前に捧げるから。 見つめあった視線の糸は七於を呼ぶ声により切れた。 申し訳なさそうな表情で謝る七於へ一斉は「構わん、行ってこい!」と笑顔を浮かべて軽く背中を押す。 名残惜しげに振り向きながら呼ばれた方へ走って行く七於を見送り、一斉も搭乗員たちが集まる司令所へ向かった。先程聞いた敵機の音の話をしなければならない。 自分の耳は疑っていないが、状況が信じられなかった。いつから日本の制空権はこんなに侵食されていたのか。そもそも南洋一帯を支配しているのだから、敵の奇襲があることがおかしいのではないのか。 邀撃をした搭乗員たちが司令所で集まり上官や士官に報告している。一斉に気づいた赤坂が「おい、犬!てめーはこっちだ!」と憎々しげに呼んだ。 一斉がその一角に近づくと見慣れない搭乗員が何人かいる。先程の敵機を追っていた仲間たちだろうか。 「で、犬鳴。敵機が多数待ち構えていたというのは本当か」 上官に問われ一斉はしっかりと答えた。 「はい、本当であります!」 南東おおよそガダルカナル島の方面に逃げ帰るグラマン数機を迎え入れるように二十機を超える機体が待ち構えているのを確かにこの耳で聞いたこと。 「自分は既に偵察も行なっております。その報告に今まで間違いはありません。今回の件も決して間違いではありません。あのまま進んでいたら、今頃全滅していました」 その言葉を聞いた上官は顔に血を上らせて怒鳴った。 「貴様ら八機でたかだか二十機も落とせないと言うのか!」 「敵は万全の準備をしていたに違いありません!自分たちの機体では燃料も弾数も邀撃のあとで十分ではありませんでした」 一斉が言い返すと「黙れ!」と一喝される。 「戦場では誰が判断を下す!貴様らは……」 上官が続けようとすると、「もう良い」と鋭い声が一斉たちの後ろから響いた。 「かっ、霞ヶ城中将!?」 上官が驚いたように名を呼び敬礼をした。一斉たちも驚き慌てて敬礼をする。 「……楽にしてよい」 気付けば周りで報告を行っている搭乗員たちも霞ヶ城中将の方へ姿勢を正している。 霞ヶ城中将は一斉の零戦復帰を後押ししてくれた人物だが、陰では「シベリア殺しの貴公子」と呼ばれている。 旧華族家の出身で高貴に整った顔立ちが婦人方の人気を博している一方、日露戦争ではシベリアで鬼神の如き働きを見せたというが、かの地の氷すら生温いと思わせる程の敵味方問わない情け容赦の無さからそんな渾名が付いたのだと実しやかに囁かれている。そのせいで士官をはじめ兵たちからも恐れられている存在だ。 霞ヶ城中将は周りをちら、と一瞥し既に萎縮している上官と一斉たちに向き直った。 「して、犬鳴二飛曹。報告は本当か」 「はい!間違いはありません!」 薄墨のような淡い色合いの霞ヶ城中将の目をしっかりと見つめて一斉は答えた。 「霞ヶ城中将!そやつは視力が良くないのです。音が聞こえたなどと言っておりまして……」 口を挟んだ上官に氷のような冷たい眼差しを向けて、霞ヶ城中将は静かな、しかし威厳のある声で告げた。 「貴様は下がって良い」 「し、しかし!」 「犬鳴二飛曹を偵察と邀撃要員に指名したのは私だ。二言はない」 上官はぐっと喉を鳴らし「失礼します」と告げると足早に司令所を後にした。 「……霞ヶ城中将」 訪れた重い沈黙を破ったのは赤坂だった。 何を言うのかと一斉と周りにいる搭乗員が霞ヶ城中将から目を離して赤坂を見る。 「なんだ、赤坂上飛」 冷酷とも取られそうな鋭い視線を赤坂に向け、霞ヶ城中将が訊ねる。 「自分は逃げ行く敵機の姿しか視認できませんでした。しかし、犬……犬鳴が言っていることは本当だと思います。奇襲を早々に引き上げたのも追撃部隊を待ち伏せするため、と言われたら納得できますし、何より……奴の耳が優れていることは、自分が身をもって知っています」 「赤坂……お前……」 まさか赤坂から擁護されるとは思っていなかった一斉は目を見開き赤坂を見つめた。一斉の視線を受け取った赤坂は霞ケ浦中将の手前にも関わらず憎々しげに小さく舌打ちする。 「ほう」 僅かに面白そうに目を細めた霞ヶ城中将は赤坂と一斉をしばし見つめてから頷いた。 「さすが、命をかけて戦闘演習をしただけあるな。実弾を撃ち込むとは思わなかったが、貴様を指名したのは間違いではなかったようだ」 一斉の試験飛行で戦闘演習に赤坂を指名したのが目の前の人物だということを初めて知った本人たちは目を丸くして霞ヶ城中将を見つめる。 「……報告内容は改めて確認する。以上だ」 そう言うと霞ヶ城中将はもう赤坂にも一斉にも視線を向けることなく司令所を後にした。 霞ヶ城中将が去ったあとをぼんやりと見つめていた一斉は、ざわざわと戻り始めた喧騒に気付き振り返って赤坂に呼びかけた。 「赤坂っ、お前……」 一斉の言葉はギン、と焼き尽くすばかりの鋭い赤坂の視線で途切れる。 「てめえのために言ったんじゃねえッ!」 赤坂は叫ぶようにそう言うと一斉の肩に自らの肩をドン、とぶつけてそのまま司令所の外へ歩き去った。 一瞬呆然とした一斉は司令所の入り口へ駆けていき、去りゆく赤坂の背中に大きく叫んだ。 「赤坂ーっ!それでもっありがとうなーっ!」 轟々と鳴り響く戦闘機の中で遥か彼方の敵機の音を聞き分ける一斉には、サアサアとそよぐ風に揺れる椰子の葉の音の中から赤坂の小さな舌打ちを聞き取ることは酷く容易だった。 それは不思議と照れ隠しのような音をしていた。
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