第一幕

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第一幕

テレビでCMを見かけない日がない程度に有名な某殺虫剤のメーカーA社が、驚異的な新製品を開発したと発表した。 飲料水などに混ぜると、それを飲んだ人は一定期間まったく「蚊」(正確には、人の血を吸う“産卵前のメスの蚊”のみを示すであろうが、通例的な呼称として全て“蚊”と表記させていただく)にさされないですむという、じつにユニークで画期的なアプローチの防虫剤である。 長年にわたる地道な研究と、さらに長い年月をかけての徹底的な臨床実験により、その確実な効果および人体に無害である確証データは既に完璧にそろっている。 いかんせん、かつて例を見ない全く新しいタイプの製品であるからして、関係各機関との折衝(せっしょう)にはよりいっそう骨を折ると担当者は覚悟していた。 しかし、……幸か不幸か……南米での流行に端を発した致死性の伝染病が、たった1人の旅行者の体を介して日本に上陸し、なおかつ蚊を媒介(ばいかい)として感染拡大の恐れがあるというニュースと時期が重なったため、世論が盛大に後押ししてくれる結果となり、迅速(じんそく)に市販の許可がおりた。 さあ、満を持して全国のドラッグストアの店頭に並ぶやいなや、この製品が飛ぶように売れた。入荷するそばから、たちまち品切れ。工場の生産が追いつかないほど。売れに売れまくる。 購入者からの反響も申し分ない。原液のキャップを開けるとツンと鼻をつく異臭がただようので、はじめは少し抵抗を感じるものの、コーヒーや清涼飲料水など風味の濃い飲料に混ぜてしまえば、難なく飲み干せてしまう。 なにしろ、服用量は、たかだかティースプーン1杯くらいのものなのだ。体格や年齢による多少の個人差はあるが、1回の服用で2週間ほども効果が持続する。乳幼児から高齢の年配者まで服用可能で、アレルギー症状等の副作用のクレームも皆無というからたいしたもの。 しかも、この効果が絶大。 当節ハヤリのいわゆる人気ユーチューバーと呼ばれる人物が、無数の蚊を捕獲した巨大なガラスケースの中にパンツ1枚の格好で一晩過ごすという実験を試みたところ、見事に一か所も刺されることがなかった。 投稿動画が公開されるや、たちまち全世界に拡散され、その再生回数は史上最高記録を塗り替え続け、テレビ各局からの問い合わせが何件も舞い込み、実際にワイドショーやお堅いニュース番組にもひっきりなしに取り上げられた。 発明者であるA社所属のアオイケ博士の談をかいつまめば、この製剤を内服することによって、蚊の嫌悪する匂いがカラダから発生するのだとか。人の鼻では嗅ぎわけられないレベルの臭気だが、蚊にとっては、鼻をつまみたくなるほど(つまめる鼻があればだが)強烈なものらしい。 われわれ人間に置き換えて考えてみれば、たしかに、どんなに美味しいゴチソウを目の前に出されたとしても、それがミモダエするほど臭かったとしたら、とうてい食指は動かないものだ。 むしろ、その食べ物からできるだけ遠ざかろうとするのではないか。 蚊も同意だったようで、この「内服防虫剤」が市場に出回り定着し、大半のユーザーがリピーターとして常用するようになっていくと、人々の生活圏からどんどん蚊が消えていった。内服防虫剤を常用している人間たち……蚊にとっては「鼻が曲がるほど臭い食糧」……が存在している区域そのものから蚊が逃げ出していったのだ。 もはや、プックリ赤く()れた太ももの斑点(はんてん)が恥ずかしくてお気に入りのミニスカートをあきらめたり、かゆみに耐えかねて血がにじむほど皮膚をかきむしるストレスもなくなり、伝染病におびえるリスクも低減され、ちっぽけな体格のわりに異様な存在感を示すうっとうしい羽音にイラつき怯えながら眠れぬ夜を過ごすこともないのだ。 蚊が人里離れた場所に生息区域を移してくれたおかげで、防火水槽や側溝(そっこう)の水たまり、ため池などで、不快なボウフラの遊泳を見かけることもなくなった。
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