春の残映

2/6
8人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ
 みどり公園をゆるやかに左に曲がっていった突き当たりに、僕の住むマンションはあった。むき出しのコンクリートの外観をして、ドアだけが暗い緑色だった。 「おかえり、しん君」  マンションのドアを開けると、いつも彼女はそう言って出迎えてくれた。黒と紫のボーダーの長袖のTシャツとショートパンツの上に、赤のエプロンをつけていた。 「彼女にエプロンをつけて出迎えてもらいたい」  そんな願望を、何の気なしに、彼女に漏らしたことがきっかけだった。  願望と言えば、髪型も、化粧もそうだった。ゆるい二つ結びに、眉上に切りそろえられた前髪を赤のピンで飾った髪型や、ナチュラルだけど目がきらきら光るように見える化粧は、僕が好きだった小説の女の子を、彼女が真似をしたものだった。彼女は、僕の好きな恰好をして、僕が好きなような振る舞いをした。 「ただいま、まあちゃん」  僕が返すと彼女は、にっこりと笑ってすりよってきた。僕は居酒屋のバイト帰りで、においが気になったけど、それを受け入れていた。いつだったか、気にして避けたら一晩中泣かれたのだ。それからは、彼女は気にしていないのだしと、割り切るようになった。  僕はこのとき、フリーターをしていた。夢をもって入った会社で、人として扱われず、二年と少しで、僕は体を壊してしまった。当然ながら、会社は僕を簡単に切り捨てた。再就職しようにも、体が言うことを利かず、僕の視界は諦念にまみれていた。  彼女と出会ったのは、そんな時だった。  僕は当時、公園にいることが多かった。大学進学で上京してきてからこっち、ずっと僕の希望や苦しみを吸ってきたワンルームの部屋に一人でいると、色んなことが頭に浮かんで、おかしくなりそうだったのだ。とはいえ鳩にやるえさもなく、ただぼんやりうなだれていた。  ある日僕は、向かいのベンチに座っている女の子に目がいった。それは本当に偶然だった。その子は近隣の高校の制服を着ていて、しきりに目をおさえていた。  その仕草で、泣いているのだとわかった。脇に置いた学生鞄から、ときおりティッシュを取り出しては、じっと目と鼻をおさえていた。真っ赤に染まった耳元には何個もピアスがついていた。僕はその日、声をかけるでもなく、ただじっと彼女を見ていた。  次の日も、また次の日も、彼女はそこにいた。僕はうなだれ、彼女はうつむき時に泣いていた。  声をかけたことは、互いに一度もなかった。ただ、奇妙な連帯感だけが、そこにあった。何となく、互いに相手が自分に話しかけるのを待っているような――不思議な空気の緊張と、互いがいることの安心を持っているような、そんな錯覚がはたらいていた。  彼女と初めて目があった時、彼女は困った顔をしてほほえんだ。僕も笑った。そうして、 「大丈夫?」  僕の口から、言葉が零れ出た。久しぶりの人間の、人間への言葉。それが全てで、僕らの始まりだった。  それから時間をおかず、僕らは二人で暮らしだした。どうしてそうまでになったのか、今では全く不思議な流れだったが、奇妙な連帯感から、僕らは互いを他人として見ていなかった。それに尽きたし、それでよかったのだろう。  彼女は、家にお金の余裕がなくて、大学に行けないと言った。家を出て行って、働かなければならないが、それをするには、彼女は精神を病んでいておぼつかず、何より社会というものに怯えていた。 「私なんかを誰も必要としてくれない。死んだって泣かない。だから死にたい」  そう言って泣く彼女が、打ち捨てられた僕自身と重なった。僕は、知らず彼女に親身に接していた。そして、どんどん彼女に惹かれていった。  夜ごと不安に泣く彼女を抱きしめ、あやしてやった。衝動のままに傷つけた腕を、大事に手当してやった。何か僕がいやなことをしたり、精神の均衡を崩したりして暴れたら、一晩中必死でなだめ、狂騒を鎮めてやった。  それは、僕が誰かにしてほしかったことだった。  彼女の不安は、僕自身の不安だった。彼女に「大丈夫」と言うことで、僕自身が救われたかった。けれど同時に、僕は彼女を支えたいと思い、だから僕が頑張らなければと思うようになった。そのことが、何より、僕を心地よくした。  僕は彼女を愛することで、もう一度頑張ることができる自分に戻りたかったのだ。  彼女はいつも、僕の好きなご飯を作って待っていた。一緒に住むようになってから、僕はバイトを始め、彼女は少しずつ家事を覚えた。 「おいしい。いつもありがとう」  じっと僕の反応をうかがう彼女に言うと、彼女の顔は安堵と喜びに満たされた。その顔を見るのが、僕は好きだった。 「私でも、しん君の役にたてるかな」 「たってるよ」  背を向けた彼女を、抱きしめてささやいた。彼女の体の温もりが、はかない笑顔が、僕を満たしてくれた。  バイトの給料と、わずかな貯金でまかなわれる生活は、いつだってふたりきりだった。彼女は時々、働きに出ては、いつも調子を崩して辞めた。僕は就職活動をしては、お祈りされる日々だった。暮らしの余裕はどんどん減っていった。そうして、僕らはより互いを求めるようになっていった。  僕らには、互いの存在以外しか、不安を消すものを持たなかった。  布団の中で、じっと抱き合って、汗ばんだ体に顔をうずめ、死んだように息をひそめた。彼女は泣いた。僕も泣きたい気持ちで、その分彼女を強く抱きしめていた。  今でも覚えている、彼女の泣き声に似た吐息も、すがってくる傷だらけの細い腕も、僕は何もかも覚えている。ずっと、忘れたことはない。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!