結婚の条件は「ちはやぶる」

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1 「お待たせ! ごめんな、遅くなって」  俺は店に入ると、急いで彼女の席へ向かう。十分ほど遅刻して慌てている俺に対し、彼女は眉一つ動かさずに天使のような笑みを浮かべた。 「ううん、気にしないで。そんなに待ってないから。料理もまだ来てないよ。そろそろ、コースの前菜が来ると思うけど……」 と彼女が言った直後に、ウェイターさんが「お待たせいたしました」と言いながらテーブルに二つ、前菜の皿を置いた。  俺は恥ずかしさと情けなさで顔が真っ赤になる。 「あの……、本当にごめん! 店に入る前に忘れ物しちゃって……。どうしても、すぐに必要な物だったから……。でも、先に店に入らせて、待たせておくなんて男のすることじゃないよな……」  彼女は首を横に振った。 「ううん。料理は前もって君がコース料理を予約してくれてたから、分からない事とかは特に無かったし。お店の内装も素敵だったから、ずっと眺めててね。全然、退屈じゃなかったよ。だから、本当に気にしないでね」  彼女の御仏のような慈悲深い台詞に、思わず拝みたくなってしまう。  ここまでの状況を説明しよう。  俺は渋谷英和大学の大学三年生。大学名の通り、渋谷にあるキャンパスに通い英文学を専攻している。そして、目の前に居るのは同じゼミの小浅莉奈(こあさりな)。やや童顔だが、卵の様につやつやとした肌に女優の様な小顔、スタイルも良く、学業に関しても優秀で努力家、ゼミの教授からも一目置かれている。眉目秀麗という言葉は彼女の為にあるようなものだ。  今日、俺は彼女に告白する予定だ。この日の為に彼女と同じゼミに潜り込み、三月から必死に距離を縮めようとした。そして、念願は叶い、十二月のクリスマスイブに彼女を食事に誘うことに成功したのだ! 『もし、良ければなんだけど……。美味しいフランス料理の店を見つけたんだ。大学の近くなんだけど、一緒に行かないか?』  この言葉に彼女は目を輝かせ、頷いた。ここまではOK。後の準備は万端だ。先週の内に店には予約を入れてあり、最上級のコース料理を頼んである。そして、デザートは最高級のケーキセット(彼女はケーキ等のスイーツが大好物だ)。さらに、渋谷の有名百貨店の中にある宝石店でオーダーメイドの指輪も注文してある。  デザートを食べ終わり、お互いが一息ついた時、ポケットから指輪を差し出して、 「ずっと、貴方のことが好きでした! 結婚を前提に付き合ってください!」 と告白する。頭の中で何度も何度も流れをシミュレーションしていた。  ただ、先程、うっかり宝石店に指輪を受け取りに行くのを忘れていた。その事に気が付いたのは、店に入る直前。仕方なく、「ちょっとだけ待ってて」と言って、彼女には先に店に入っていてもらい、俺は急いで指輪を受け取って戻ってきたという訳だ。  以上がここまでの流れ。序盤から失敗してしまったが、まだ取り返せる。ディナー中に最高のトークを披露して、少しでも小浅さんに楽しんでもらうんだ!  俺は前菜のスープを銀のスプーンで口に運ぶ。濃厚な旨味が口に広がった。いつも授業終わりに通う定食屋とは流石に味のレベルが違った。食べ慣れていない味に舌が硬直し、緊張で体が震えてしまう。食事だけではない。銀の食器に銀の皿、窓からは美しい明かりが散りばめられた夜景が見える。本来なら、決して俺の様な凡人が足を踏み入れるべきではない領域。思わず身が竦んでしまった。 「わぁ、このスープ、凄く美味しいね!」  小浅さんは気にする様子もなく、舌鼓を打っている。恐らく、こういう場には慣れているのだろう。堂々とした態度の小浅さんと対照的に委縮している俺。……男として情けなくなった。  お互いのスープの皿が空になり、すぐにウェイターが皿を回収する。余りの手際の良さに驚かされた。高級店はここまで凄いのか……。 「ねぇ、ちょっとお話しても良いかな?」  小浅さんが俺に訊ねる。まさか、彼女から話しかけてくれるとは思いも寄らなかった。俺は満面の笑みで頷いた。 「いいよ! 是非、何でも話してよ!」  すると、彼女は再び俺に訊ねた。 「じゃあさ。君は『ちはやぶる』の歌って知ってるかな?」    
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