ラフカディオ

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ラフカディオ

杵築大社(きつきのおおやしろ)からの使いで参りました……」  雨の中からぬっと顔を突き出した女は、ラフカディオを見て、ニヤリと笑った。肩に斜め掛けした風呂敷が膨らんでいることに彼はまず目を奪われた。大きな布地……風呂敷を、包んだり、分けたり、背袋にしたり、ものを入れて腰に巻いたり……と、日本人の智慧(ちえ)というものにほとほと感嘆してきたラフカディオは、女が放り投げた番傘ではなく、まず、風呂敷の紋様に視線が止まった。  とはいえ、ぼやけてくっきりとは見えない。  ラフカディオの左眼は子どもの頃に失明していて、右眼も強度の近眼で、眼鏡をかけてもほとんど役には立たない。  濡れ髪の女をそのままにしておくのはイギリス紳士の道にはずれる。ラフカディオの母はギリシア人だが、父はアイルランド生まれの英国軍医……かれは混血なのである。  手招いて玄関から土間へ導いて、乾いたタオルを差し出した。  女は低声(こごえ)で、「だんだん」とつぶやいた。  だんだん……は〈ありがとう〉の松江国訛(ほうげん)である。  敷台に座らせ、湯を沸かすためにラフカディオは立ち上がった。妻のセツは所用で実家の小泉家に戻っていて、明日まで帰らない。隣家から食餌(しょくじ)が届けられることになっていて、朝と昼の余り物を皿に盛った。  ……なにも女に対して猥雑な欲望をおぼえたわけではない。  杵築大社の名を出した女を無碍(むげ)に追い返すわけにもいかない。  それに。  ラフカディオは日本語はほとんど(わか)らない。ただ対象をジロリ、ギロリと観察するのだ。そのときのかれの表情というものは、相手に物凄い気味悪さを感じさせてしまう。 《……先生》  ふいにラフカディオの頭の(なか)で、そんな声が響いた。流暢な英国語(イングリュシュ)である………。 〈…………?〉 《先生……お探ししましたよ……》 〈……………………?〉 《驚かないで……直接……話しています……》 〈き、君は……?〉  ふっと頭に浮かんだ問い……が、相手にも伝わっていたようである。 《その調子です……ギリシア語でもロンドンスタイルでもなんでもいいんです……思ったことはそのままこちらに伝わりますから》 〈ど、どうして?〉 《うふふ、そんなこと、どうでもいいことでしょう? この世の中には不可思議なことがたくさんある……そんな物語を集めていらっしゃる先生なら、意思疎通の手段よりも、なぜ、あたしがここに来たのか……そのことだけに集中して考えてみては?》  あたかも耳鳴りが小刻みに届く、その時間の落差のなかに女の意識が投影されているようでもあり、すでに自分の頭のなかに忍び込んでいるようでもあった。女に叱咤されてラフカディオは、右眼を相手に近づけた。たいがいの者は怖がったり、驚いたりするのだが、女は平然としている。 〈君は……わたしと会ったことがあるのかね?〉  ラフカディオは頭のなかで()いた。 《……おや、やっと気づいてくれましたか?》 〈ん? どこで会った?〉   ぐいっとラフカディオは右眼を女に近づけた。よくみかける町人の娘のようにみえた。着ている物をなんと表現していいのかかれにはわからないまでも、旧士族に連なる妻が着ているものよりも貧相にみえた。歳の頃もわからない。頭を手ぬぐいでくるりと包み巻いていた。 《先生……いや、パディ?》 〈え?〉  ラフカディオは驚いた。  そして顔が(あお)ざめていくのを、自分で感じていた。  よろめいて、椅子に座り直した。  自分のことを〈パディ〉と呼ぶのは、小さい頃のただ一人の友達以外には考えられない……。 〈き、きみは? 一体……?〉  ふいに頭の中が白くなった。そこに考えられないメッセージが飛び込んできた。 《……パディ……の眼球を返すために、ダラムからやってきたのだよ……うふふ》
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