XXXIX Miss.××××

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「――え……」  目の前に広がる光景に、思わず声を漏らす。  意匠を凝らした短剣(タガー)を握る、白と黒のコントラストを身に纏った女性と、彼女と俺の間を遮る老紳士。  どちらも、見覚えの無い人物だ。  女性の腕に掛けられていたバスケットが、地面に緩やかに落下する。石畳に落ちた反動で、中に詰まっていたアネモネの花が吐き出される様に散らばった。  数えきれない量のその花は、狂気的な程に全て赤。どれだけそれが美しくとも、赤黒い花が密集しているのは薄気味悪い。 「……なん、で」  その言葉を発したのは、自身だったか、それとも女性の方だったか。  ひたりと、石畳に雫が落ちる。散らばったアネモネと同じ色の雫。  俺に背を向けた彼が、苦し気な声を漏らし身体を丸めた。 「――君、怪我は無いかね」  その言葉が自身に向けられたものだと気付いたのは、発せられた数秒後。動揺が滲んだ声で、慌てて肯定を示す。  女性が短剣で狙ったのは、“あの手紙”通り自身だろう。本来なら、俺が此処で刺される筈だった。なのに。  俺を庇ったのか、それとも女性を庇ったのか、剣先を咄嗟に握り、彼が怪我を負った。  彼の掌には痛々しい傷が出来ていて、湧き水の様に赤黒い鮮血が溢れ出ている。  疑問と動揺が混ざり合い、考えれば考える程思考の糸が絡まっていく。 「――手、の怪我……早く、手当を……」  必死に言葉を絞り出し、彼の腕に触れた。  正しい止血処置は、どの様な手順だったか。鼻に衝く血液のニオイにぐらりと眩暈がするのを感じながら、ジャケットの内ポケットに手を差し込みハンカチを探す。  しかし、彼がそれを制す様に俺の手を掴んだ。 「手当は結構。屋敷に戻れば、優秀な医師が居るのでね」  彼が自身のポケットから白のハンカチを取り出し、慣れた手付きで傷口に巻き付けていく。   「彼女も悪気は無いんだ」  顔を青く染め、放心した女性を一瞥した彼が呟く様に言った。 「許して欲しいというのもおかしな話だが、彼女を恨まないでやって欲しい」  彼の手に巻かれたハンカチに、じわりと血が滲む。それは徐々に広がり、瞬く間に全体を汚すシミとなった。  しかし彼は、表情を一切変える事無く淡々と言葉を続ける。 「今日の事は、誰にも話すべきじゃない。特に、君の家族には」 「……家族?」  彼のその言葉に一瞬疑問を抱くが、自身の左手の指輪を思い出し、咄嗟にそれを隠す様にスラックスのポケットに左手を差し込んだ。  曖昧に言葉を濁し、彼から目を逸らす。  あまり闇雲に、エルの存在を人に話したくないのは今も昔も変わらない。  エルが屋敷から抜け出してもう10年以上が経つというのに、今でも彼女が名家の令嬢だと知られることに不安感を抱いていた。  たかが左手の指輪1つで、エルの存在が知られる訳が無い。そんな事、頭の中では分かっている。  しかし、彼に他の人には無い“何か”を感じていた。 「――あまり、此処に長居はしない方が良い。大事になってしまっては大変だ」  ゆったりとした動作でバスケットを拾い上げた彼が、ハットのクラウンを押さえ此方に向けて小さく会釈をした。それに釣られ、ぎこちなく頭を下げる。 「では、私達はこれで」  去り際、彼が一度だけ瞳を此方に向けた。  その瞬間に感じた、妙な既視感。 「――あの」  それはたったの数秒の出来事。十中八九、自身の勘違いだ。  しかし自身を支配するその既視感に、気が付けば彼を呼び止めていた。 「……以前、何処かでお会いした事が?」  その場に流れる、数秒の沈黙。  口を衝いて出たその言葉に、自分自身でも疑問を抱く。こんな事を聞いて、既視感の理由が分かるとは思えない。  俺の目を射る様に見つめる彼の視線が、今は酷く痛く感じた。 「――いや、初対面だよ」  永遠にも感じられる程の沈黙を破ったのは、彼のその一言。 「私達“とは”ね」
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