終、白い部屋:「    」

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終、白い部屋:「    」

** 「こんなに真っ白な子は見たことなくて、すっごく興味をそそったんだよ。なんで真っ白なんだろうって」  真っ白か。つまり私は何もない。  個性も何もない、真っ白でつまらない人間だと。  言い当てられていて乾いた笑いがこみ上げてきた。 「白って一番綺麗な色で、一番何でも染まっちゃう色だから、君は今からってことだよ。今まで色が見える場所になっていなかったんだから」  卑屈に考えちゃうのは仕方ないよ。でも大丈夫だよって彼は笑う。 「きっと描く前の四角いキャンパスの中なんだよ。人と関わることが怖くてできないとか、逃げてきたとか、君は心を見せたくなくても見せちゃうから逃げるしかないでしょ? 四角いキャンパスの中に逃げちゃってる。要は誰かをすきになったこともどんな思想も知らないから、真っ白なんだよ」  彼は鉛筆で下書きしてあるキャンパスを見せた。 「君の心はこのキャンパスの四角の中みたい。ここが君の心の部屋だよ」  白い四角の部屋。 「これから勇気を出したり、もし声が聞こえなくなったら丸い優しい心になるかもしれない。でも今は、君のせいじゃないんだし尖った四角でいいんじゃないの。何がだめなのか俺にはわからないよ」  いいじゃん、四角で。真っ白で綺麗なままでもいいし、好きな色を探せばいい。 「心は自由でいいんだよ。香澄ちゃん」  自由でいい。自由でいいんだよって。  この人はきっと、私に一目会ったときから真っ白なオーラを見て、受け止めて否定せず気づかせてくれた。  私一人が我慢することはないって。 「で、君のその真っ白なオーラを描かせてよ」 「真っ白なのに?」  どう描くんだろう。 「気になるなら描かせて。さっき、天文館にいる真っ白な君がとても綺麗だったんだ。だめかな」 「駄目ではないけれど」  人にここまで近寄ってもらったことも心を聞かれたこともない。  不快になるんじゃないかな。嫌な思いしかさせないんじゃないかな。  黙ることができない心の声は邪魔だろうし、いつかこの優しい彼の負担になってしまいそう。 「描かせてって俺が頼むのに、君が気を遣うことはない。そしてもし俺が君に不誠実な行動や態度を取っても。ーー絶対に取らないけど。その時は君じゃなくて俺が悪いんだ。くそ野郎って吐き出しちゃってくれてかまわないからね」  だから、お願い。  彼は自分のかわいらしさを知っている。男の人に可愛いっていうのもなんだけど。  あざといっていうのかな。捨てられた子犬のようなまなざし。断ったら後味が悪いじゃん。 「いいでしょ。ガラス瓶あげるんだし」 「……私と関わっていいことなんて考えつきません」  心の綺麗な人ならたくさんいるだろうし。私のクラスの真昼さんとか。  芸能人とか、見目麗しい人を描いた方が楽しそうだし。 「あはは。ほんと香澄ちゃんって気にしいだね。うっとおしいぐらいマイナス思考」  う、うっとおしい? 「大丈夫。約束する。俺はもう香澄ちゃん、気に入っちゃった。だからごめんね」  決定だよってケラケラ笑ってる。 ***  まだ信じられなくて両手が震えている。  竹田さんの軽トラックの助手席で、ずっと頭が混乱していた。 「荷台に乗ってるカメラマンは、商店街の写真屋の息子さんだ。確か今は東高校の専属カメラマンだったかな。で、真昼さんとは恋人同士だったんだね、それはおじさんも今、知ったよ」  彼が。  彼が真中さんの絵を写真館に保管してくれていた。  真昼さんや華音さんは、壊される児童文化館を学校の授業の一環で見学に来ていたらしい。その時に、真昼さんが絵を見つけ隠し、華音さんたちが廃材置き場に隠した。  それを見ていたカメラマンは白い包みの中に、真中さんの絵を見つけた。  もともと知り合いだったから、真中さんの絵のサインを知っていたし、そもそも優しそうなあの人ならきっと真中さんの絵じゃなくても保管してくれていただろう。  真昼さんの心が安定するまで待っているつもりだったらしい。 「難しいね。それぐらい大切な人の死って、人生が狂わされるんだよ」  真昼さんは恋人がいたから、乗り越えられたかもしれない。  でも大切な恋人がいても、後悔が残る兄の死を受け止められることはできなかった、と。  私は真昼さんに対して、怒りも憎しみもない。  ひとごろし。  あの言葉の意味の重さも、彼女の自分自身への投げかけなのも分かる。 「こっち。しばらく二人きりで見たらいいよ」  画材屋の上のアットホームな写真屋さん。  その日は、誰もいなかった。おじいさんとおばあさんは、今日は町内のゲートボールの大会らしい。 「そっちの部屋に置いたから」  私が証明写真を撮った白い四角い部屋。  まるで真中さんが言った、私の白い部屋みたいだった。  あかりんと大和さん、景十さんと真昼さんも電車で後から来るらしい。  想像よりも大きかった。一メートルぐらいありそうな大きな絵が、壁に立てかけられている。 白。 赤。 紫。 青。 黄。  色とりどりの花びらを両手で梳くって、笑っている私が白くて四角い部屋の中に居た。  ああ、私ってこんな風に貴方の前では笑っていたんだね。  白い部屋に零れ落ちる色とりどりの花びら。 『綺麗な色に染まってね』って彼が言っているようだった。  白い部屋を彼が『見せてよ』って開けたんだ。  私は『誰も見ないで』って閉じちゃったけど。 『見つけないで』『カギを壊さないで』って、頑なに心を閉ざして、高校生になったの。  でも、あかりんも景十さんも大和さんも優しくて白い部屋を『壊したい』『壊したくない』っていつしか葛藤するようになった。  ――ひとごろし  その言葉に真中さんとの思い出を奥へ奥へ隠した。忘れないで、ここにいるよって、内側から真中さんとの思い出がノックしても怖かったんだよ。  でも、零れちゃった。涙になって零れ落ちちゃったんだ。  私、貴方の絵の中でも分かるよ。こんなに幸せに笑っていた時間があったこと。  貴方が大好きだって表情が言っていること。  そしてこんな風に私の笑顔を描いてくれた貴方が、私のことを大切に思ってくれていること。  キャンパスを裏返すと、メッセージが描いていた。 『   』  その言葉は、あの事故の日、最後に唇が動いたときに発していた言葉だったね。 『好きだよ』  たった四文字の愛の言葉だった。 「うああああああああっ」  泣き声じゃない。叫びだ。コントロールできない感情が体から放たれた。  ありがとう。  会ってくれてありがとう。  白い部屋を見つけてくれてありがとう。  手を掴んでくれてありがとう。  好きになってくれてありがとう。  私も好き。私も大好き。  世界で一番、貴方が好きでした。  どこにいても、貴方が世界で一番好き。  心の一番柔らかい部分を貴方が触れてくれたから、私は前を向ける。  飛び越える。飛び越えられる。  あなたのたった四文字で、私はこれからも辛いことも悲しいこともへっちゃらだよ。  心が泣いた。声がかれるまで泣いた。  誰も白い部屋には入ってこないまま、私は声と涙が枯れるまで白い部屋で泣いた。  大切なものを失った悲しみと真中さんのメッセージに。  ただただ、心から溢れる気持ちを叫んだんだ。  真中さん。  私と出会ってくれてありがとう。  私の唇は、声が枯れたけど四文字つぶやいたんだ。 「    」 *** 「いっけー、香澄っ」  先生の笛の合図で、ジャンプした。  太陽が頭上を照らし、くらりと一瞬めまいがした気がする。  蝉の声が耳の中で何度も跳ね返り、頬に汗が垂れた。 「記録、一メートル六十四センチ」 「おっしいい」  私よりも悔しそうにあかりんが転がってグラウンドを叩く。  フェンスの向こうでは、真昼ちゃんと大和さん。  フェンスの前では景十さんがにやにや笑っている。 「でも部活始めて四か月で平均飛べるなんてすごいんじゃないの」 「そう。香澄は頑張ってんだよ。50メートル走のタイムも上がったから、走り幅跳び、行けるぞ」  あかりんと真昼ちゃんが、甘やかしてくるけど大和さんは苦笑いだった。 「でも平均超えねえで中途半端なまま走り幅跳びに変更すんのってどうなんだよ」  私が練習してるのをにやにや見ているだけのくせに、景十さんがなんだかんだ言って一番、正論を言ってくる。  でも分かっている。今までシャーペン以上の重いものをもったことがない私はまだまだ努力しないといけないのを。 「ここ、暑いから先にカフェに入っていていいよ」  大和さんと真昼ちゃん、そして景十さんとあかりん。  今日は私の記録更新と、あかりんの地区二位でインターハイ出場のお祝いで景十さんのカフェでケーキを焼いてお祝いしてくれているらしい。  なので、私が飛べないと私だけケーキが食べられない。 「ううん。せっかくだから見てるよ。ね、大和くん」 「うん。俺、走っている星ちゃんを描きたいし、見たいし」 「あら、まじ? じゃあ、もう一回飛んでこようかな。香澄のあとで」  結局、皆の視線が注がれる。  この後、皆でケーキを食べて、そして……真中さんのお墓にお参りする。  遅くなった私に、いつも笑っている彼も怒ってくれるといいな。  何回でも必死で許してくれるまで謝りたいから。  あの日、見つけた絵。  生涯きっと、あれほど心を揺さぶられる絵に会うことはないだろう。  空が夜に染まるころ、両親が迎えに来たときには私の心は再び誰にも聞こえなくなっていった。  コントロールできなくなるぐらいの激情でもない限り、もう聞かれることはないのかなって思っている。  家に持って帰るときに、ちらりと両親に見られてしまったんだけど、「綺麗に描いてもらえてよかったね」と二人も泣いていた。  こんな両親に育ててもらえて、私は幸せだった。 「二回目、測定」 「はいっ」  次だ。次で飛び越える。  一回も超えたことがないのに、なぜか自信が漲っている。  一メートル七十センチと少し。  苦しんでいたその長さを、私は今、飛び越えようとジャンプした。 終
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