プロローグ

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プロローグ

 我に返ると太陽の塔の奇怪でふてぶてしい立ち姿が目の前にあった。子どもの頃に心をわしづかみにされた一九七〇年大阪万博の象徴は、どういうわけか金髪美女の下半身から伸びている。  生で見てみたいと父母におねだりすると勉強に集中しろと怒られ、テレビで眺めることしかできなかった岡本太郎の大作がなぜ? 相対する私は全裸で床に座り込んでいる。まだ頭がぼんやりとしていて現実感がないが、周囲に目をやると重厚な一枚板の作業机があり、書棚の横には西洋甲冑が置いてある。  思い出した。私は東京の老舗中堅ゼネコン鰻金組の社長で、ここは私専用の個室だ。 「どんな気分か教えて」太陽の塔を生やした美女が口を開き、私は自然と背筋が伸びる。美女は飾り羽を背負ったビキニ姿で、神々しいオーラをまとっている。 「最高の気分です」正直に答えた。この美女の前では誰もウソを付けないと感じた。  徐々に直近の記憶がよみがえってきた。気まぐれで会社の採用面接に顔を出した後、個室に戻ってくつろいでいると美女が突然入ってきたのだ。あれよあれよという間に私は太陽の塔を受け入れた。 いつかは太陽の塔が遺産として残る万博記念公園に足を運ぼうと心に決めて生きてきて気付けば還暦を迎えた。太陽の塔は私の中で神格化が進んでいて、実際に目にすると期待を裏切られるような予感がして怖かった。まさかこんな形で対面が実現するなんて。 「怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだと岡本太郎は言いました。私も最初は怖かったですけど、飛び込んで正解でした。女王様が太陽の塔を私の万博会場に建てていただいたおかげで、世界の国からこんにちはできそうです」 「岡本太郎? 太陽の塔? よく分からないわね。それに女王様って何なのよ」  無意識に漏れ出た言葉だが気分を害してしまったのだろうか。誰かに心の底からひれ伏したいと思ったのは生まれて初めてで、つい口が滑ってしまった。 「すみません。何て呼ぶべきか分からなくて。よかったら名前を教えていただけませんか」 「オレ様に名前なんてないわ。オレ様はオレ様よ。ま、名前がないと不便でしょうから、あんたが呼びたいように呼びなさい」 「ありがとうございます! 女王様!」 「ところで大太千晴は合格なの?」  誰だっけ。それに合格ってどういうことだ。地に足が付かない感じが続いていてすぐに思い出せない。ああ、そうだ。採用面接で出くわした生意気な受験生の名前が確か大太千晴だ。女みたいな名前の口だけポンコツ男め。 「彼は不合格です。なぜなら面接を滅茶苦茶にしたからです。経緯を説明しますと、私が不出来な女子大生の志望動機の粗さを責め立てていると泣いてしまったんです。女王様には隠し事はできないので打ち明けますが、泣き顔を見ていると興奮してしまってどんどん声が大きくなっちゃったんですね。女子大生が黙るとますます気持ちよくなっちゃって怒鳴り声が廊下に漏れたみたいで、彼が順番を無視して部屋に入って来たんです。でっかいキャリーケースを引きずって、分厚いコートを着ていました」  急にドアが開いたからびっくりしたのだった。驚かされた分だけ怒りが増した。 「いくらなんでも横暴すぎますと彼が食ってかかってきました。名札にある名前と書類を照合すると、聞いたこともないFラン大を中退してるんですよ。よくもまあ生意気な態度を取れるなと呆れましたよ。即刻退場させてもよかったんですけどね、私はああいう自分の正義を振りかざす男が大嫌いなんです。ターゲットを彼に切り替えて吠えまくっていたら腹痛を訴えてトイレに逃げました」 「あんたの会社はあんたみたいな腐ったおじさんが多いの?」 「腐ったおじさんってどういうことでしょう」話題を急に変えられ戸惑っているとドアをノックする音がした。 「絶対に入ってこさせないで」女王様に凄まれて大きく首を縦に振る。言われなくても全裸姿を社員に見せるわけにはいかない。 「今は取り込んでるから後にしろ」 「大変失礼しました。ご主人様」ハイヒールの音が遠ざかる。 「なんだエリカか。びっくりさせやがって。調教中の女なんですよ。周囲に誰もいない場合という条件付きでご主人様と呼ぶようしつけてるんです」 「なんであんたみたいなおじさんの言いなりなのよ」 「私に男性としての魅力を感じているからです。あと、私が社長だからというのもあるでしょうね。エリカは海外駐在を希望してるんですよ」 「人事はあんた次第なんだ」 「そうです。人事は公平であることが大事だとかなんだとか小うるさいコンサル連中は言いますけど、現場のことを理解していない頭でっかちの発想ですよ。あいつらは正論ばっかりで会社組織の実態を知らない。我が社はオーナー企業なんだから、創業家は絶対なんです。おじい様だってお父様だってみんな同じことをやってきたし、それで今まで事業を拡大してきた。私のきょうだい、いとこも自由に力を発揮してますよ」 「あんたの会社、最高に腐ってるじゃない。天国だわ。よし、決めた。大太千晴を合格させなさい」 「え?」予想外の求めに頭が真っ白になる。 「二度も言わせないで。合格させなさい」 「承知しました」一度でも逡巡した自分を恥じる。「あなた様がそのようにおっしゃるのであればやらせていただきます。能力の低い男ですが、あなた様の顔を潰さぬよう私が一から育て上げます。専用のプログラムを組み、死力を尽くして一人前にします。絶対的に不利な立場なのに私に食ってかかってきたのは骨があるし、磨けば光るダイヤの原石かもしれません」  嫌いな奴の良さを探そうなんて今まで考えたこともなかった。変な感じだ。でも、なんであいつなんだろう。 「差し支えなければ教えていただきたいのですが、なぜあのような男をひいきにされるのでしょうか」 「あんたみたいな腐ったおじさんとたくさん出会えるからに決まってるでしょ」  理解が追い付かない。たくさんのおじさんと出会いたいということは、私はワンオブゼムに過ぎないと言われたようで気が滅入る。 「安心しなさい。オレ様は釣った魚にはちゃんと餌をやるタイプだから、あんたのことはこれからも可愛がってあげる」不安を見透かしたかのような優しい言葉だ。 「ありがとうございます」  目に涙がにじむ。今まで多くの称賛を浴びてきた人生だったが、ここまで心を動かされたことがあるだろうか。私は咄嗟に床下の隠し金庫から札束を取り出し、女王様の目の前に差し出す。 「これは?」 「気持ちです」 「ふざけてんじゃないわよ!」太陽の塔が鞭のようにしなり私の頭を打つ。重く芯まで響く痛みが襲う。 「すみません! リスペクトを目に見える形で示したかっただけなんです!」 「与えていいのはオレ様だけ。ギブアンドギブ。これがオレ様のモットーよ。分かったかしら」 「はい!」顔から火が出るぐらい恥ずかしい。 「キャー!」  うつむいていると突然の悲鳴に驚く。声の主は女王様で、西洋甲冑を指差しうつ伏せで倒れ込んだ。  西洋甲冑をよく見ると、兜から人の目が覗いている。私の視線に気付いたのか両手が動き、兜が外れて中から男の顔が出てきた。  見覚えがある。最近の業績不振を問題視する外国人株主の圧力で仕方なく雇うことになったコンサルタントのポール栄司だ。倒産寸前の会社を次々に立ち直らせ、付いたあだ名が「不死鳥の血を売る男」。私にとっては厄介なよそ者でしかない。 「おいコンサル! そこで何をしてるんだ!」 「現場第一主義なものでね。ところで、あなたこそ会社で何をやってるんだ」  しまった。私は今、パンツを履いていない。 「これはその」声が震える。うまく誤魔化さないと破滅する。 「あなたの社内での破廉恥な行為を見逃す」意外な発言に驚いていると、女王様が起き上がりポール栄司とにらみ合う。 「代わりにこの人材、我が社にいただきたい」ポール栄司が女王様を指差した。 「このお方を誰と心得ているんだ! 尊い方なんだぞ!」 「就活生の男の子でしょ? 大きなキャリーケースを引いて男子トイレに入って行って、派手な女の子が同じキャリーケースを引いて出てきたから驚いたよ。最初は別人だと思ったけど目の下のホクロの位置が同じだ。コンサルの直感で何か起きると確信して、あなたがいないタイミングを見計らって趣味の悪い西洋甲冑に潜んだのだが正解だったよ」 「就活生の男の子って大太千晴のことか? あんなポンコツと同一人物のはずないだろ!」奇をてらって意味不明なことを言うからコンサルは信用できないのだ。 「オレ様は断るわよ」女王様の目は焦点が定まっていない。 「ずっと見ていたけど、君は腐ったおじさんが大好きなんでしょ? 腐ったおじさんを改心させる不思議な能力の持ち主でもある」 「買いかぶりすぎよ」 「君は天才だ。生粋のドSで知られる社長を、言いなりのドMに生まれ変わらせた。M転師とでも言ったらいいのかな。私のリサーチによると社長はそもそも生物学的な女性にしか性的な興味を抱かないはずなんだが、その壁すらも簡単に乗り越えてしまった。すごいよ。私は死にかけの組織を蘇らせることが専門のコンサルタントなんだけど、一緒に仕事をすれば君は腐ったおじさんと出会い放題だし、私は君の力を使って頑固なおじさんを生まれ変わらせ改革を断行できる。ウィンウィンじゃないか」 「腐ったおじさんなんて大嫌いよ」 「さっきまで大暴れしてたのに素直じゃないね。付け加えると、僕らの職場はグローバルなんだ。新人研修はニューヨークだし、君が望むのであればアメリカでもヨーロッパでも、どこでも自由に働けるよ。君みたいな規格外の人物は日本を狭く感じるだろう」 「東京から離れられるんだ」ぼーっと虚空を見詰めていた女王様の目に鋭さが戻る。「なるほど、いいわね。ぜいたくも言ってられないし雇ってちょうだい。勤務地は、そうね、太陽の塔とやらがある場所でいいわ」 「大阪かい? いいじゃん。さっき社長が言っていた万博が再び開かれるし、カジノもできてこれから大いに盛り上がるよ」  私を置いてけぼりにして話が前に進む。せっかく女王様と仲良くなれたのに。 「私はどうなるんですか」女王様が東京から出て行ってしまったら簡単に会えなくなる。 「オレ様の前から消えて。今すぐ」  まるでさっきとは別人のような言いぶりだ。最後まで面倒をみると言ってくれたのに。でも、このお方の意思ならば仕方がない。冷たくされて今まで味わったことのない快感が背筋を走る。 「仰せのままに」最後にもう一度太陽の塔を拝みたいと女王様の下半身を盗み見たが、爆発した後なのか見る影もなかった。
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