《142》

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 僅か一人で衆を相手にした経験、無いわけではない。一騎だけで万の敵を引き回した事もある。ただ、その時は騎乗だった。徒立ちで百、二百の衆を相手にするのはこれが初めてだった。しかも、今、眼前に並ぶ敵は一人一人が手練れだ。得物の構えでそれがわかる。忠勝は丹田に力を込めた。石川数正は必ず捕える。できれば、この癩病男も。徳川家の軍事機密を他国に渡すわけにはいかないのだ。思考が明瞭になってくる。忠勝の眼、闇の中とは思えぬほどよく見え始めていた。蜻蛉切、腕と化している。  地を蹴った。 「伏せられよ、忠勝殿」 不意に声が聞こえた。背後からだ。ひび割れた、ひどく汚い声だった。反射的だった。忠勝は倒れ込むように前に伏せた。火縄銃の破裂音が響く。硝煙の匂いが立ち籠める。いくつもの足が忠勝の回りを通過していった。身を起こした。前方、突如現れた者たちが敵と槍を交えている。 「怪我などはしておりませぬか、忠勝殿」  汚い声がすぐ傍で聞こえた。忠勝の隣に黒衣の男が進み出てきている。天海だった。 「天海、おぬしも石川数正を」 「はい」 天海は争闘を見つめている。闇に溶けてしまいそうな黒衣に忠勝は視線を巡らせた。 「三河の荒廃ぶりが気になり、独自に調査をしておりました。そこで、石川数正が引っ掛かり、今宵、尾行をつけたのです。驚きました。まさか、ここに忠勝殿が居るとは」 「もしかして、おぬしも服部半蔵を遣ったのか」  天海が頷く。あの守銭奴の陰湿野郎め。忠勝は内心で服部半蔵を罵った。天海の依頼も同時に請け負っていたなど、半蔵は一言も忠勝に告げていなかった。忠勝と天海、半蔵は二重に銭を受けていたのだ。
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