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①
目元のカラーは少し濃いくらいに欲張って。
最後に真っ赤なルージュを唇に乗せる。
わずか一滴だけ、それを指で擦って魔法をかける。
そうすれば、ほら。
自分でない自分になれる。
特別な自分に……。
「わぁぁ! 綺麗! 本当に魔法みたい!」
大きな瞳をいっぱいに広げて、子供のように覗き込んでくる結菜の顔は可愛かった。
「結菜は顔の作りが派手だから、薄化粧でも十分可愛いじゃん。そういう方が得だと思うけど」
「えー、でもやっぱり、女の子なら、色んなメイク試してみたいって思うの! ちょっと色変えるだけでケバくなっちゃうし。これはこれで悩みなんだよ」
「へぇ、贅沢な悩みだ」
女の子ならという台詞に勝手に胸がチクリとする。
悪気などないのは分かっている。勝手に傷つくだけ、自分でも面倒くさいと思う。
「ごめんね。こんなこと、涼介にしか頼めなくて……」
「いいよ。大した事じゃない。上手いもん食べられるし、いいアルバイトだ」
「そう言ってくれると嬉しいけど……」
本当にごめんと言って結菜は申し訳なさそうに目を伏せた。
仕上げに目元にラメを追加した。後はロングヘアのウィッグを付ければ完成だ。
鏡に映る自分、俺、結城涼介は満足げな微笑みを浮かべていた。
都内の大学に通う平凡な学生。
男の一人暮らしの狭いアパートで女の子と鏡を見ながら何をやっているかと言えば、俺の顔にメイクをしている。これから髪と洋服も整えて、完璧な女装をするのだ。
彼女とそういうプレイをするわけではない。
俺の隣にいる女の子、武藤結菜は彼女ではなく、女友達だ。正確に言うと、俺を理解してくれる唯一の、と言ったところだろうか。
もともとSNSで自分の趣味を上げていて、コメントをくれたところから付き合いが始まった。
お互い恋愛感情はなし。結菜にはラブラブの彼氏がいる。
そのことが原因で、今回こんなことになったのだが……。
13cmのヒールは、自分の体にぴったりと馴染む。まるでこの身長で生きてきたのかと錯覚するくらい、この視界から見る景色が好きだ。
ただの街灯も特別なスポットライトに見える。自分は女優にでもなったつもりかと呆れるが、それが心地良いのだから仕方がない。
コツコツと硬質な靴音が響いてきた。一直線にこちらに向かってくる。
それはそうだ。髪型や服装を連絡していたのだから。
大丈夫、今夜だけ。
軽く食事をするだけ。
そう、自分に言い聞かせて唾を飲み込んだ。
とにかく最悪の印象だけを残して。
さっさと消えればいいだけだ。
足音が自分の前でピタリと止んで、下を向いていた視界に男物のいかにも高そうな革靴が見えたので俺は顔を上げた。
上流階級の人間などとまともに顔を合わせたこともない。ただの勝手なイメージで、いかにも金持ち風のギラギラした嫌味な感じの男が来るのかと思っていたが、イメージとは全く違う男だった。
高そうなブラックのスーツを寸分の狂いもなく完璧に着こなしている。スラリと背が高く、スーツの上からでも分かる鍛えられた体格。色白で整った鼻梁は一瞬甘い印象だが、硬質な銀フレーム眼鏡の奥にある双眼は野生の獣を思わせるような強さがあった。
ヒールを履いた俺よりも、もっと高い位置に顔があって見上げることしかできない。
目が合っただけで全身の毛がぞくりと逆立つように痺れが走った。
こんな人間に会ったことなどなかった。
「武藤結菜さん?」
おまけにその男の口から出てきた声は、腹に響くような低音のバリトンボイスで、思わず後ろにきゅっと力が入ってしまった。
まずい…、こんなことは初めてだ。
近づいてはいけない。
全身でそう感じているのに、逃げ出すことはできない。
俺は背中に流れていく汗を感じながら、ロボットのようにぎこちなく、頭を動かして頷いた。
「お願い! こんなこと、涼介にしか頼めないの!」
学食でラーメンをすすっていたら、目の前に半泣きの結菜が座ってきて両手を合わせて神仏かのように拝まれたのが先週のこと。
「どうした? 来週から彼氏と海外旅行だろう。機内でのアイメイクのやり方とか?」
「……違うの。今回は私の練習じゃなくて、涼介にやってもらいたいのよ……。ユーキの手を借りたいの」
結菜の言っていることが分からなくて、箸で掴んでいたナルトがスルッと滑って、ポチャンと音を立てて醤油のスープ落ちた。
SNSでユーキという名前で、部分メイクの動画を上げ始めたのが一年前。性別は公開していないが、完全に女性向けのメイクなので、当然女性だと思われている。
趣味で細々とやっていたのだが、それなりに人気が出てしまった。身バレはしたくなかったのでどうしようかと悩んでいたら、モデルになりたいとコメントをくれたのが結菜だった。
秘密厳守でまずは本人だと言わずに会ってみようと思って待ち合わせ場所に行くと、現れた女の子に驚きで言葉を失った。
嘘! 結城くんじゃん! 結城くんだったの!?
結菜の第一声にごまかすこともできずに、全て終わったと諦めた。
なんと同じ大学で同じ学年。
まさかの偶然に頭を抱えた。
お互い顔と名前は知っているが、結菜とは話したこともなかった。
何しろ住む世界が別の人間だと思っていた。
大企業のムトー電気の社長令嬢、華やかな容姿でいつもたくさんの人に囲まれていた。
そんな彼女がなぜ、と理解できなかった。
バカにされたり引かれるかと思って警戒したが、結菜は結城くんで良かったと言ってふわりと笑った。
完璧なお嬢様だと思っていた結菜だったが、とにかく手先が不器用でメイクで自分を変えたいと悩みながらもできなくて困っていた。
俺の動画を参考に、ひとりである程度できるようにまでなったのだと感謝されてしまった。
お嬢様なら人を雇えばすぐ解決するだろうと思ったのだが、結菜は人に触れられることが苦手だった。
髪の毛まではなんとか我慢できるが、メイクとなるとベタベタ肌を触られるので、鳥肌が止まらなくて気分が悪くなるのだと聞かされた。
ワケは聞かなかった。自分のことで精一杯だから深入りしたくはなかった。
しかし、それが結菜には心地良く感じたらしい。
自分がモデルになるから、ユーキとしての活動を続けて欲しいと言われた。
もちろん、教えてもらうのだから無償でやりますと押し切られて、二つ返事で了承した。
それから、結菜はたまに俺の部屋に来てメイクを勉強して、その様子をアップしている。
結菜はいいと言うのに、プレゼントだと言って新しい化粧品や、洋服から靴まで俺の部屋に持ってくるようになり、今は一部屋が衣装部屋のようになってしまった。
困った顔をしながらも、俺は喜びを隠しきれなかった。
なぜなら俺の趣味はメイクだけではなく女装、完璧に女性になりきること。
服や装飾品の類は集めるのに苦労していたが、それが夢のように揃ってしまい嬉しくてたまらなかった。
結菜と俺の希望が上手いこと合致したのだった。
「ここの料理は口に合わない?」
低音で響いていた声がやはり腹の奥に刺さって、ビクリと体を震わせそうになった。
合わないのではなく、食べ慣れないと言った方が相応しい。
庶民の俺にはどれもこれも見たことがないものばかりで、たぶんあの食材なのだろうなという予想で口に入れたら全く違う味がして、混乱しながら咀嚼する、というのを繰り返していた。
創作フランス料理とか言っていた気がする。
待ち合わせは高級ホテルのロビーで、そのまま最上階の高級レストランで食事。
スマートなデートコースというより、上下で済むずいぶんとお手軽なコースに感じるが、これが最初で最後の顔合わせであるのだから、ドライブする必要などない。
聞けばこの男も結婚しないので有名なヤツらしい。金と地位があって容姿端麗、わざわざ縛られたくないのなんて想像しなくても分かる。
仕事上の付き合いで断りきれずに参加した。つまらなければ食事だけでサヨウナラ。気に入れば下の部屋でもとって一晩楽しんだら、適当に理由をつけて二度と会いません。
そんな流れまで想像できてしまって、ため息をつきそうになった。
「どうやらお互い気が進まないようだ」
男の自嘲気味に笑う口元があまりに色気がありすぎて、ぼんやりと見入ってしまった。
さすがに声までは女にすることができないので、あまり喋らないようにしておこうと決めていた。
黙ってつまらなそうにしていれば印象は最悪だ。それで、適当に食事を終わらせて二度と会いませんと言うだけの簡単なものだった。
大企業の社長令嬢である結菜には恋人がいる。幼馴染らしいが、俺と同じ一般家庭で育った男で、仕事もごく平凡な会社員らしい。
結菜が触れられても平気だという唯一の男だ。
しかし、住む世界が違うと当然のように両親の反対に合っているが、こっそりと交際を続けている。
いくら説得しても聞かない娘に業を煮やしたのか、両親は勝手にお見合いをセッティングしてしまった。
お見合いに行かなければ、家から当分出さないとまで強く言われて、結菜は焦った。
なぜなら、お見合い当日は、一年前から準備していた恋人との旅行の日だった。
なかなか予約の取れないホテル、この時期だけ見られる自然の風景など、今から変更することができない事態に結菜は俺に泣きついてきた。
相手はお互い会ったことも見たこともない人だが、有名人らしく、結菜はその人物のことは知っていたそうだ。
不動産、住宅、建築などの分野で国内に多くの子会社を持つ、グループ企業大手のKURO SAKIの社長令息、御曹司様。
黒崎奏28歳、まだ若いが何社も手がけていて成功している。まさに順風満帆を絵に描いたような男。
奏は次男なので気楽な立場であるが、長男よりも有能で将来が期待できると言われているそうだ。
気楽な立場か、まだ若いのもあるのかもしれない。結婚はしないと公言している。ただこの容姿だ、噂話絶えない。どれも取っ替え引っ替えというひどいものだが、それでもいいという女性は後をたたない。
ここまでが事前に結菜から聞いていた情報だった。
「武藤社長にはお世話になったから、ぜひ会うだけでもと断れなかった。どうやらそちらもそのようだ」
「え…ええ。そう、です」
どうやらぎこちないお食事会はそろそろ終わりに近づいているらしい。
俺はホッとして目の前のグラスに入ったワインを飲み干した。
「……酒は苦手だと聞いていたが……」
「え…あっ……。きょ…今日は飲みたい気分で……」
「そうか……」
奏は洗練された大人の男の色気を漂わせながら、それは奇遇だと言った。
「俺もだよ。先ほど、恋人にフラれたばかりでね」
再び注がれたグラスに口をつけていたら、とんでもない発言にワインを口が噴き出しそうになった。
恋人にフラれた帰りにお見合いに来るなんて、何を考えているのだろうか。
「そ…それは、お辛い…ですね」
「それがそうでもないんだ。もとから体だけの関係だったからかな。さっさと出て行かれても追いかけようとも思わなかった。むしろ気持ちが楽になった…というやつかな。お互い飽きていたんだな」
開いた口が塞がらないとはこのことだ。
上流階級の恋愛なんてサッパリ分からないと思ってきたが、その通り一欠片も同意できる部分がない。
「好き……では、なかったのですか?」
「好き、か。そういうのはもう過去に置いてきたかな。この歳になると、気持ちよりも優先するべきことが先にいくものでね」
腹のあたりがカッと熱くなった。
カッコつけたことを言いやがって、俺はこういうふざけた野郎が大嫌いだった。
「それに俺は、女性では…満足できなくてね」
何やら意味ありげに微笑んできたので、俺は無意識に体を後ろに引いた。
普通の女性では、ということだろうか。まったく贅沢もやりすぎると頭がおかしくなるらしい。
好きでもない体だけの関係、フラれてもなんとも思わなくて笑って話せるぐらいの気持ち。
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