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◇◇◇◇◇ 通されたのはアトリエではなく、和室の客間だった。 30代くらいの若く綺麗な女性が、琉球ガラスの青く美しいコップに、氷の浮いたよく冷えている麦茶を出してくれる。 奥に引っ込んだ彼女の足音が遠ざかるのを待ってから、不躾だとは思いながらも久次は谷原に顔を寄せた。 「――――奥様ですか?」 言うと谷原はふっと弱く吹き出した。 「まさか。あんな娘ほどの若い奥さん貰ったら、死んだ女房に怒られます」 「―――あ。すみません」 久次が頭を下げながら姿勢を戻すと、谷原は笑った。 「彼女はここのアトリエの持ち主です。ご主人様が加納義孝の大ファンだったそうで。まあ亡くなられてしまったんですけど」 「そうだったんですか……」 続く不幸話になんとなく気まずくなり、久次は出してもらった麦茶を口に含んだ。 「―――あ、そうだ。彼女にも言っておかなきゃな」 「何をですか?」 「久次先生が、坪沼高校の教師だってことを、ですよ」 「そんな……。高校教師なんて大したことありませんから。ここでは生徒なので、先生は止めてください」 恐縮しながら俯くと、谷原は笑った。 「いえ、そうではなくて。実はね、彼女の息子さんが、坪沼高校に通っているんですよ」 「え、うちの高校に?」 久次は目を見開いた。 「瑞野(みずの)君って言うんですけど。わかります?今はええと。3年生かな」 「3年の瑞野……」 久次はテーブルの端を見ながら記憶を巡らせた。 「あ……」 脳裏にある生徒の顔が浮かんだ。 「瑞野(みずの)(れん)!」 思わず呼び捨てで叫んでしまう。 「はは。そうです。漣君」 谷原は微笑んだ。 担任ではないが、3年生でひと際目立つ生徒だった。 栗毛色でカールしている頭を、地毛で癖毛だと言い張る異端児。 問題行動こそ起こさないものの、どこかつかみどころがなく、授業中でも廊下ですれ違うときでも、いつもニヤニヤ笑っている。 大柄ではなく、どちらかというと背も低くて華奢。 顔だけ見れば整っていて、目は大きく色は白くて、まるで女の子のようだった。 しかしふんぞり返った態度と、どこか大人を見下したような態度が生意気で、久次は彼があまり好きではなかった。 「その反応を見ると、漣君はあまり学校でいい印象ではないようですね」 谷原は楽しそうに笑った。 「あ、いえ。けしてそんなことは……」 フォローする言葉が出ずに、久次はもう一度麦茶を口に含んだ。 「―――でも、許してあげてください。彼も早くに父親を亡くし、弟の面倒を見ながら頑張ってここまでやってきたんです」 谷原は目を細めた。 「僕は彼の一番辛かった頃を知っている。だから、どうしても他人事と思えなくて……」 「―――はぁ」 久次はそうするしかなくて静かに数度頷いた。 「……なんて、湿っぽくなっても悪いですね。彼は今、ああして元気に頑張って毎日高校にも通って頑張ってますから!」 谷原はふうっと息を吐くと、手元にあったクリアファイルから、テキストとパンフレットを取り出した。 それを見て、久次は慌てて背負ってきたバッグから眼鏡を取り出し耳にかけた。 「久次先生は、月曜日と木曜日の週2回。夜間コースでしたよね。とりあえず夏休みの間だけ、ということでしたがよろしかったですか?」 「あ、はい」 「夏ですと、夕方5時から6時半までとなります。材料は一式でこちらの金額で申し込みできますが、画材屋さんなどでご自身でそろえていただいても結構です」 「いや、お任せします」 「わかりました。では次の木曜日……明後日までに準備しておきます。 続いて簡単にではありますが、教室の説明をさせていただきます。この森のアトリエでは―――」 暑い部屋と、蝉の声で、谷原が話す内容は、ほとんど頭に入ってこなかった。 ただ脳裏に、あの栗毛色のシルエットが浮かび上がっていた。
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