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◆◆◆◆◆ 彼女が言うことはもっともで、自分は美術部の顧問として最低限の指導もできないばかりか、材料の名前も知らないんじゃ、彼女たちが才を振るうための環境さえ整えてあげることができない。 美術部顧問の兼務は自分にとっては災難だが、美術部のメンバーにとっては大災難だ。 特に海老沢たち三年生にとっては美大進学も掛かっている。 身に降りかかった火の粉とは言え、彼女たちを犠牲にすることはできない。 森の中をひたすら進む。 「こんな車も入れないような道の先に……」 額の汗を拭きながら進む。 「アトリエなんて……」 下ろしたてのスニーカーがすでに枯葉と土で茶色く濁っている。 軽い傾斜を上り切ると――――。 「………あった」 久次が通う坪沼高校から電車で二駅離れた山の麓に、絵画教室“森のアトリエ”はあった。 西洋の洋館のような造りの家をぐるっと見回す。 なんでも、数十年前にかの有名な絵画家、加納(かのう)義孝(よしたか)が、余生を過ごしたとされる別荘で、彼の死後、熱狂的なファンが買い取ったそうだ。 そして数年前に彼の教え子であった谷原(たにはら)道明(みちあき)が、そのアトリエを借りて絵画教室を始めたのだという。 大型の曇りガラスの掃き出し窓が並ぶ。 一部開けられていて、中が見えた。 油とシンナーの匂い。 板張りの床にいくつものイーゼルが置かれている。 「―――おお……」 イーゼルの上には描きかけのキャンパスが置かれていた。 都会で育ち、テレビゲームやパソコンで育ったような久次は、森の中で虫の声に耳を澄ませ、通り過ぎる雲のせいで照ったり曇ったりするキャンパスを見つめながら、背筋を伸ばして筆を持つ自分なんて、想像できなかった。 「――――久次さん……ですか?」 突然声をかけられ、久次は驚いて振り返った。 「驚かせてしまいすみません」 どこには50代くらいの背の高い紳士が立っていた。 「あ、もしかして谷原先生ですか?」 「はい、そうです」 紳士は柔らかに微笑みながら、8月の猛暑の中にいるとは思えない涼しい顔で頷いた。 「少々驚きました。電話の感じがとても落ち着いておられたので、もっと年上かと。もしかしたら僕と同世代かな、なんて予想してました。こんなに若い好青年だとは―――」 「いえいえ、そんな……」 久次は恐縮しながら名刺を取り出した。 「お電話した久次と申します。よろしくお願いします」 彼は両手を差し出し、「頂戴します」と丁寧に言うと、名刺を指で挟んだ。 「――坪沼高校……?」 「あ、はい。古文を教えています。音楽は多少経験があるのですが、なにせ美術は初めてなもので」 電話であらかた経緯は説明していたが、なぜか谷原は驚いたように名刺を見つめている。 「―――あの?」 覗き込むと、彼はふっと笑って再びこちらを品のある微笑で見つめた。 「暑かったでしょう。中で何か冷たいものでも飲みながらお話ししましょう」
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