初恋は6歳の夏。  それは私にとって黄金の想い出。

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初恋は6歳の夏。  それは私にとって黄金の想い出。

 初恋は6歳の夏。  それは私にとって黄金の想い出。    夏休み、私はまたここへ来た。  蝉しぐれ、入道雲、青い空、喪服の人々。  祖父が亡くなった。82歳。大往生。  祖母は少し泣き、それから寂しそうに笑った。  私は冬用のセーラー服の袖をまくりあげ、母に叱られている。この鬱陶しい長い髪だけでも切ってくれば良かった。 「紗綾(さや)はもういいから、川ででも遊んで来なさい」  母が言う。  川遊びをするほど幼くはないが、お(とき)の席でお酌をするほど大人ではない。  川縁には誰の影もない。残暑の熱にさらされて、それでもなお川風は涼やかだ。川原にしゃがんで小石を拾う。立ち上がり、川に小石を投げ入れる。  二つ。三つ。 「そんなことしたら魚が逃げるだろ」  振り返ると、短パンに麦わら帽子の男の子。黄色いバケツを持っている。 「魚……、釣るの?」 「釣らねえ。けど獲るから」  男の子はぶすっとした声で返事をすると草履のまま、川にザブザブと入っていく。膝くらいまで川につかってバケツに水を汲む。そのままザブザブとこちらへ戻ってきた。 「どうやって獲るの?」  男の子は私の顔をちらりと見て、バケツを私の方へつきだした。バケツの中には鯉が二匹、ひらひらと泳いでいる。 「いつの間に?」 「今。見てただろ?」 「見てた……けど」  男の子は私に背を向けると、しゃがみこんで、魚を頭からばりばりと齧り始めた。 「ねえ」 「なんだよ」  男の子は口の端についた魚の血をぬぐいながら、こちらを見る。 「お醤油はつけないの?」  一瞬の間。  男の子はブハっと吹きだした。 「あの時と同じこと言うんだな、サヤ」  私の鼻を想い出がくすぐる。あの夏を、あの匂いを。  キョウチクトウ。  一面にキョウチクトウ。  父が死んだ。  私は6歳で、なぜ父がいないのか理解できなかった。  黒い服の人たちに母がペコペコ頭を下げるのを、見ているのがいやだった。  家を抜けだし川原へ駆けた。  一面にキョウチクトウ。くらくらするほどに濃密な香り。  そこに、彼はいた。 「カジカ……」 「やっと思い出したかよ、サヤ」  カジカは、ニイっと、大きな口を顔いっぱいに広げて笑う。その笑顔も昔のままだ。 「ねえカジカ。キョウチクトウはどうなったの?」 「刈り取られて焼かれたさ。毒があるからな」 「きれいだったのに」 「人間の大人は過保護なんだ。毒があるならなんにもゆるせない」  カジカは無造作に言うと、またバリバリと魚を齧りだした。 「ねえカジカ」  カジカは振り返らない。 「私、あなたが好きだった」 「しってる」 「あなたと一緒にいきたかった」 「しってる」  カジカは立ち上がると、麦わら帽子をはずす。隠れていた皿が姿を現す。 「けど、サヤは大人になっちまった。人間の大人は過保護だから、黄昏の子供は毒気を抜かれる。ただの人間になっちまった」  カジカはうつむいて黙ってしまう。夕陽がカジカの影を長く伸ばす。まるでカジカが大人になったみたいだ。 「いっしょに大人になろうよ、カジカ」  強い風が吹いた。  目を開くと、そこにカジカはいなかった。  麦わら帽子が風にまかれて飛んでいく。  夕暮れの空は赤く赤く。まるであの花のように。 「紗綾、いつまで外にいるの」  呼ばれて振り返る。母が手招きする。  帰っておいでと手招きする。大人におなりと手招きする。  私は一度だけ振り返る。カジカの姿はどこにも見えない。キョウチクトウは燃やされた。  私は……。 「さよなら、カジカ」  蜩の声はやみ、いつの間にかコオロギが鳴いていた。  私は真っ黒な家へ向かう一本道を、のぼっていった。
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