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ー 流浪の旅 ー
次の日の朝。
時次郎はおていの手を強く握りしめ、
「おていさん、俺は一旦詰所に戻り旅の支度をしてくるよ。 今夜見廻組が来る前に迎えに来るから、あの長屋で必ず待っててくれ」
「わかりました。 私、待っていますね」
見つめ合う2人はもう一度抱き合い、時次郎は遊郭を出て詰所まで走って行った。走っていく時次郎の後ろ姿を、おていは部屋からいつまでも見つめていた。
見廻組の詰所では多くの組員が襲撃の準備をしていた。その混乱とした詰所の中で、時次郎は周りの目を気にしながら襲撃の準備のふりをして旅の支度をしていた。そして他の組員の目を見計らい、時次郎は見廻組の詰所をコソコソと逃げるように出て行った。
時次郎は走りながら新撰組の斎藤のことを思い出すと、
「そうだ、せめて斎藤だけには伝えておこう」
と呟きながら壬生寺へ向かった。新撰組がいる壬生寺の中でも、今夜の島原襲撃の準備でごった返していた。時次郎は門番に頼み、斎藤に入り口まで来てもらうよう伝えた。突然壬生寺に訪ねて来た時次郎に、斎藤は慌てて出てきた。
「時次郎、お前どうしたんだ? 今夜は島原に襲撃だぞ」
「斎藤、すまない。 俺は島原に行けない」
「行けない?」
それから時次郎は、船宿の襲撃の時に命を助けてくれたおていのことを斎藤に語った。
しかし、それを聞いた斎藤は呆れた顔をして、
「だからと言って脱藩することはないだろう? そんなことをしたらお前、過激派からも見廻組からも命を狙われるぞ」
「構わない。 その時は誰であろうと俺は斬る! しかし親友であるお前とだけは闘いたくないんだ」
「それでこれから何処へ逃げるんだよ?」
「おていの生まれが信州だと聞いている。 だからとりあえずそこへ行って、身を隠しながら百姓になろうと考えている」
「会津は?」
「脱藩した人間が会津に帰れる訳などないだろう? だからお前に別れを言いに来た。 今までありがとう」
斎藤はあごを触りながらしばらく考えたが、
「分かった。 またいつかどこかで会おう!」
と肩を叩き、そして時次郎は走って行った。
時次郎は過激派の目を気にしながらおていが待つ島原の長屋に入った。
「おてい、今来たぞ!」
時次郎が大声を出しながらおていの部屋に入ると、部屋の中には誰もいない。
「おてい、おてい!」
すると部屋の片隅に一通の手紙があった。
『時次郎さん、かんにんして下さい。やはり私は武士であるあなたとは一緒に行けません。どうか私のことは忘れて幸せになって下さい。お元気で。 てい』
「おてい・・・」
時次郎は手紙を丸めて、その場にうずくまる。
すると、島原の街で見廻組と新撰組が襲撃する声が聞こえてきた。それを聞いた時次郎は慌てて長屋から飛び出し、暗闇の中へ走って逃げた。
暗い街の中をしばらく走っていると、数人の過激派たちと出くわした。
「待てぃ!」
その過激派たちとは、以前襲撃したあの船宿にいた過激派の残党だった。
過激派は時次郎の顔に気づき、
「お前は確か、あの時の見廻組だな!」
過激派は一斉に剣を抜いて、時次郎に襲いかかった。
「よくも俺たちの仲間を殺したな! お前だけは絶対許さん!」
次々と過激派は時次郎を襲うと、時次郎もまた剣を振り回し必死で闘った。
すると、過激派の1人が時次郎の左腕を斬り落とした。
「うわぁっ!」
時次郎の悲鳴と同時に左腕が地面に転がった。それでも時次郎は剣を片手で持ち、地面に這いつくばりながら必死で逃げようとした。
「お前はもうおしまいなんだよ」
過激派は時次郎にとどめを刺そうとしたその時、1人の男が時次郎を助けにやって来た。
「斎藤!」
新撰組の斎藤が過激派を次々と斬っていった。
「私は新撰組三番隊組長の斎藤一だ。 過激派どもよ、よらば斬る!」
過激派が怯んだ隙に斎藤は時次郎に叫ぶ。
「時次郎、早く逃げろ! ここは俺がやる!」
「斎藤、すまない」
時次郎は斬られた左腕を右手で押さえて、暗闇へ走って逃げた。斎藤は過激派と激しく斬り合っていると、しばらくして新撰組が助けに駆けつけた。
「斎藤さん、お助けいたします!」
「ちっ、新撰組どもめ! 逃げろ!」
時次郎を襲った過激派はまた街の何処かへ逃げて行った。
斎藤は暗闇に消え行った時次郎に向かって、
「生きろよ、時次郎!」
と呟きながら、剣を鞘におさめた。
あれから1年後。
流浪の旅をしていた時次郎は急な夕立を避けるように走り、誰もいない神社の境内に雨宿りをした。そして雨で濡れた服を手で払い、懐から出した手ぬぐいで顔を拭いた。
ふと何処からか野良犬がやってきて、時次郎の隣に座る。その汚れた野良犬は左前足が無く、体中傷ついていた。
「なんだ、お前もか」
時次郎は境内の屋根に叩きつける雨音を聞きながら、あの時のことを思い出していた。そして無くした自分の左腕の切り口を摩りながら、なかなか止まない雨を眺めていた。
「野良犬よ、俺は好きな女を探して旅をしている。 しかしその人は今何処にいるかも分からない」
見上げていた時次郎は傷だらけの野良犬に目をうつし、
「俺もお前と同じ左腕が無いけどな、命があれば必ず見つかると俺は信じているんだよ」
そう言いながら、時次郎は野良犬の頭を優しく撫でた。
するとさっきまで強く降っていた夕立が止み、遠くに鮮やかな虹が見えてきた。雨で静かにしていた夏虫たちの鳴き声が、空に届くかのようにまた高く鳴り響く。
「さて、また旅に出るか。 野良犬よ、長生きしろよ!」
時次郎は野良犬にそう言いながら剣を腰に刺し、誰もいない神社を後にした。
けふも旅のどこやらで虫がなく
夕立を過ぎた遠い夏雲の空を見つめ
私はあの人を探し流浪する
「さて、あの山の向こうへ行こうか」
そう呟きながら、ゆっくりと歩く時次郎。
その背後には数人の過激派が剣を抜いて、時次郎の命を狙っていた。
ーーーーー
時次郎やおていという名は、会津にも京都にも一切記録には残されていない。また、時次郎と斎藤に交流があったことも誰にも知られなかった。
しばらくして戊辰戦争が勃発し、新撰組は会津藩を守る為に場所を京都から会津へと移っていった。斎藤も新撰組として参戦し、やがて会津の女性と結婚した。
時代が江戸から明治になった頃に斎藤は東京の警視庁で警察官として活躍し、72歳の生涯を遂げた。
現在、斎藤一の墓は会津にある阿弥陀寺にひっそりと残されている。
おわり
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