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ー 島原の女 ー
時次郎は無理矢理起き上がろうとしたが、脇腹の傷口がかなり深く体が思うようには動かなかった。
「まだ動くのは駄目ですよ」
「あなたは?」
「私は『てい』と申します。 雨の夜中に大きな音がしたので外に出てみると、あなたが大怪我をして倒れておられました」
「あぁ、私は途中で気を失ってしまったんですね。 ここはどこですか?」
「ふふふ、ここは島原にある女郎の長屋ですよ」
時次郎は驚きながら叫ぶ。
「し、島原? あいたた・・・」
島原とは京都にある有名な遊郭である。かつて、江戸の吉原・大坂の新地と共に幕府公許の花街の『日本三大遊郭』として数えられた。
「ほらぁ、まだ動いては駄目ですよ。 あなたは3日間ずっと寝ていたんですから」
「ということは、あなたら3日間も私のことを見てくれたのですね」
おていは優しく頷き微笑みながら、
「そんなことより粥を作りましたので、召し上がって下さいな」
「ありがとう、おていさん」
おていは時次郎の体をゆっくり起こし、温かい粥を食べさせる。時次郎は粥を時間をかけなからゆっくりと食べ、救われた命を噛み締めていた。
時は過ぎ、時次郎は立ってゆっくり歩けるようになるまで回復していた。
「おていさん、今までありがとう。 私はそろそろ詰所に行かなくてはいけない」
「そうですか、わかりました」
「あなたには本当に感謝しきれない。 おていさん、またここに来てもいいですか?」
「ここにですか? 私も務めがありますが、いつでもどうぞ」
「ありがとう」
時次郎は一礼をし、島原の長屋を出て行った。おていはまだ脇腹を押さえながら歩く時次郎の後ろ姿を、見えなくなるまで見送っていた。
時次郎がゆっくりと見廻組の詰所に入ると、組員たちはその姿に驚き、
「時次郎じゃないか! 貴様、生きていたのか!」
「今まで何をやっていたんだ!」
組員が集まると時次郎は深々と一礼しながら、
「申し訳ない。 あの船宿の襲撃で脇腹を負傷し、街の人に助けてもらいました」
「そうか。 まぁ、とりあえず無事でよかった!」
時次郎が生きていたという知らせは壬生寺の斎藤の耳にも入り、斎藤はすぐさま時次郎に会いにやって来た。
「おぉ、時次郎! 貴様、生きていたのか!」
「斎藤、心配をかけてすまん」
「あの襲撃の後、何日もお前を探し回ったんだぞ!」
「それは申し訳ない。 それで、あれから過激派はどうなった?」
「大体の過激派は始末できたが、数名だけ取り逃してしまった」
「そうか」
「時次郎、体が良くなり剣を振れるようになったらまた一緒に闘おう!」
「ああ!」
時次郎と斎藤は強く手を合わせると、日が暮れるまでしばらくの間再会を楽しんだ。歳も近く考え方も似ていた為、2人は意気投合した。時次郎は遠い会津からやってきた京都の地で、この斎藤は初めて親友と呼べる男になったと思った。
その夜。
時次郎は月光の下で、ゆっくりと剣の素振りをしていた。時々脇腹の傷が痛むと、途中で素振りを止め息を整える。そして遠くの月を見ながら呟いた。
「おていさん・・・」
時次郎は島原のおていのことが頭から離れなかった。
ある日、見廻組に重要な集合がかけられた。多くの組員が集まると見廻組組長が大声で叫んだ。
「また過激派どもに、島原で妙な動きがあると知らせが入った。 ゆえに我々は明日の夜に島原を中心に襲撃を行う。 今からその策を練るぞ!」
「はい!」
その襲撃を聞いた時次郎は心の中で叫んだ。
「島原だと? おていさんが危ない!」
時次郎は詰所をこっそりと抜け出し、おていがいる長屋へ向かった。しかし、おていの姿は長屋にはなかった。
「おていさん、おていさん! ちっ、遊郭か!」
それから時次郎は島原の遊郭まで走り、おていを探し続けた。途中で過激派らしき男を見かけると木の裏に隠れ、小声で呟く。
「おていさんは一体どこにいるんだ」
しばらくして遊郭で客引きをしているおていの姿を見つけると、時次郎は息を切らしながら駆け寄った。
「おていさん、探しましたよ」
「あらぁ、時次郎さん。 あなたも遊郭に遊びに来たの?」
時次郎はおていの手を引き、周りを気にしながら小声で話かけた。
「今すぐここから逃げよう。 明日はこの島原に見廻組が襲撃するからとても危険なんだ!」
「でも今から逃げようって言ったって、そんな急に」
「ええい、とりあえず店の中に入ろう!」
慌てて時次郎はおていの手を引き、遊郭の中に入って行った。部屋に入った時次郎は、障子を開いて過激派がいないか様子を見ていた。しばらくすると、おていは酒を持ってきながら部屋に入ってきた。
「まったく、そんな怖い顔をして。 せっかく遊郭に入ったんだし、こっちに来て一緒に呑みましょうよ」
時次郎はおていを少し見たが、また険しい顔をして外を見る。
「あ、そ。 では私1人で呑みますから。 ところでお腹の傷は治りましたか?」
おていは盃で酒をクッと呑んだ。そのおていの呑む姿を見て、時次郎は意を決したように慌てて酒を一気に呑み干した。そして口についた酒を手で拭きながら、自分の想いをおていに告げた。
「おていさん、俺と一緒になってくれないか?」
「え、どうしたの急に?」
「俺はあんたに命を救われた。 だから今度は俺があんたの命を救いたいんだ」
時次郎はそう言いながらいきなりおていの柔らかい体を抱きしめた。
しかし、おていは時次郎の体を突き放し、
「時次郎さん、ありがとう。 でもそれはできないよ」
「どうして?」
「島原にはね、島原の掟というものがあるんだよ」
「それは金か? 金を用意すればいいのか?」
「お金もあるけど、それだけじゃないよ。 それにあんたは武士なんだろ? 私みたいな女郎と一緒になっては駄目なんだよ」
「俺はおていさんの為なら今すぐ脱藩しても構わない。 おていさん、俺と一緒にここから逃げてくれないか?」
時次郎はさらにおていを強く抱きしめた。
「おていさん、俺と一緒になってくれ!」
「時次郎さん・・・」
時次郎とおていは抱き合いながら、ゆっくりと床に倒れていった。
夜もかなり更けてくると、賑やかだった遊郭も静かになっていた。時次郎とおていは暗闇の部屋の中で、2人並んで天井を見つめながら語っていた。
「時次郎さん、本当に私でいいのかい?」
「ああ・・・」
時次郎はそう言いながらおていを優しく抱きしめた。夏虫の激しい鳴き声が暗い部屋に鳴り響いていた。
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