家なき娘(こ)はコーヒーの香りに惹かれて②

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家なき娘(こ)はコーヒーの香りに惹かれて②

「ねえ、史郎ちゃん」 「はい?」  先ほどの客にコーヒーを出した後、マスターは刈谷のマダムに呼ばれた。トレーをキッチンの戻してから二人の方へ向かうつもりが、先手を打たれた形になった訳だ。二人の元にやって来たマスターに向かって、マダムはこう切り出した。 「ここって、確か従業員の募集してたわよね?」 「ええ、まあ、そうですけど。でも──」  ──ガタン! 「あの! 私をここで雇ってもらえませんか?!」  女性が勢い良く立ち上がった弾みで、椅子の足が床を叩いて鳴った。音に驚いてマスターがそちらを見ると、彼女は深々と頭を下げている。 「この()ね、木綿子(ゆうこ)ちゃんって言うんだけど、仕事が失くなった矢先に家まで取られてしまったんですって」 「お願いします! ここで働かせてください!」 「ちょちょちょ、ちょっと待って!」  必死に頭を下げ続ける彼女に対して、マスターは狼狽えてしまう。待ったをかけるマスターの声に顔を上げた彼女は、なんとも悲しそうだ。まるで希望の糸が切れてしまったかの様な表情には、流石のマスターも心が傷んだ。  そんな顔をさせたかった訳ではないのだ。しかし、分からないことをそのままにして、話を進めることはできそうにもない。 「どうしてそんな話になったのか、僕にも一から話してくれないか? この店で雇うってことになったら、僕も無関係ではいられないからね」  マスターは急いで入り口まで行くと、ドアを開けて表の「OPEN」の札を「CLOSED」にひっくり返した。「これでよし」とつぶやき、ドアを閉めた。 「すみません皆さん! 少しお時間をください!」  まだ店内に客がいるうちに店主の勝手で店を閉めるのだから、詫びるのは当然だ。しかし、客たちは気の良い者ばかりの様で、手を挙げひらひらと振ったり「いいよ〜」と声が上がった。 「じゃあ、話を聞こうか」  彼女──明科(あかしな)木綿子の話はこうだ。  調理師専門学校を出て就職した地元の小学校の給食センターが、統廃合による廃校で無くなってしまった。独り暮らしではあるものの、両親が残した家があったため、再就職先はのんびり探せば良いと思っていた。だが現実はそう甘くなく、就職先はなかなか見つからない。もたもたしているうちに、叔父が彼女の亡き父から引き継いだ会社が倒産してしまった。叔父一家は失踪。父が既に家を抵当に入れていて、彼女は一夜にしてほぼ全てを失ってしまったのだった。 「叔父さんは凄く頑張ってくれてたんだと思うんです。父が作った借金をずっと返してくれていたそうなので……。でも、それでも間に合わなくて、こんなことに……。家と土地と山を売ったら借金はゼロになったので、それは良かったんですけど」 「山?!」  マスターは目を丸くした。街中に住んでいると、そんな大きな規模の売買の話など耳にすることは身近では滅多にない。 「はい。それぐらい田舎だったので」 「へえ……」  木綿子は肩を竦めて苦笑した。その笑みには田舎者だという自嘲が込められているように見える。だが、やはり彼女は「お嬢様」なのだろう。育ちの良さが滲み出ているとマスターは思う。どことなくおっとりとしていて、世間慣れをしていない感がある。それが今回は裏目に出てしまい、いきなりやって来たトラブルに対処し切れなかった様だ。 「それで、もうどこにも行くところが無くなってしまって、どうしようと思っていたんです。でも、とにかく荷造りだけは進めようと出してきたリュックサックの中に、父の昔の日記があったんです」 「そう言えば、さっきそんなことを言ってたね」 「はい。日記は父が学生時代のもので、進学のために陽だまり荘で暮らしていたそうです。とても充実した日々を送っていたみたいで、日記には陽だまり荘のことだけでなく、大学やこの街についても書かれていました。もちろん、この喫茶店のことも」 「だから、ここに来たんだね」  こくり、と木綿子は頷いた。 「でも、すぐに店に入らなかったのはどうしてだい?」 「あ、それは、日記には五・六十代の方がマスターだって書いてあったんですけど、窓から覗いたら若い方だったので……。陽だまり荘のときみたいにガッカリしたくないなって、ちょっと思ってしまって……」 〝ああ、それで──〟 「ああ、それでねぇ」 「?!」  心の声と同じ言葉が聞こえて、驚いたマスターは慌てて周りを見た。木綿子の身の上話に釣られてか、土田氏を始めとする店の客全員が、マスターと木綿子を取り囲むようにカウンターの一角に集まっていたのだ。常連客たちの野次馬ぶりに、木綿子もオロオロと周りを見てしまっていた。 「持ち主が代わると、入りにくいってことあるからね」 「そうそう」 「躊躇(ためら)っちゃうってこと、あるある」 「……でも」  野次馬たちに気圧(けお)されながらも、木綿子は口を開く。 「コーヒーの香りがとても良くて……惹かれてしまって……立ち去ろうにも、どこにも行けませんでした……」  マスターの目をまっすぐに見て、少しはにかみながら木綿子は言った。彼女の言葉がマスターの胸の内にじんわりと染みてくる。コーヒーの香りに惹かれたという予想が間違いではなかったことが、妙に嬉しかった。 「そんなとき、マスターがドアを開けて招き入れてくれたのが、とても嬉しかったんです。だから……」 〝それって……〟  マスターの心臓は小さく跳ねた。そんな熱を帯びた目で見つめられると、勘違いしてしまいそうだ。まるで──。 「あらぁ、恋の告白みたい」 「刈谷さんっ!」  思わず口に出してしまったかと思うほどに、刈谷のマダムの言葉はタイミングが良すぎた。咄嗟にマダムの名前を叫んでしまったほどだ。図星を突かれた様で、マスターは焦った。 「ちちち、違います。そんな……」 「からかわないでくださいよ。ホント……」  木綿子も焦ってマダムの言葉を否定する。そんなつもりで言った訳ではないのだから当然だ。マダムにやんわりと文句を言いながら、胸にチクリと棘が刺さったのをマスターは感じていた。 「ゴメンねぇ。若い二人を見てたら、何となく」  マダムはクスクス笑いながら謝るが、あまり悪びれる様子はない。しかし、不思議と憎めない人なのだ。そんなマダムが、急に真顔になった。 「それで、史郎ちゃんはどうするの?」 「え」 「木綿子ちゃんを雇うの? 雇わないの?」 「そうですね……」  マスターは、居住まいを正した木綿子をジッと見つめる。二人の周りからゴクリと唾を飲み込む音が聞こえてきた。誰も彼も口を開かず事の成り行きを見守っている。 「資格は申し分ないし、熱意はありそうだし、何より、困っている人を助けない訳にはいかないからね。採用!」 「本当ですか?!」  採用の一言で、緊張して強張(こわば)っていた木綿子の表情が一気に緩んだ。パアッと明るく花開く笑顔が、マスターの目に眩しく映る。周りの野次馬たちも「おお〜!」などとどよめいた。 「ありがとうございます! 私、一生懸命働きます。ここで、Cafe狼森(おおかみもり)で!」 「えっ、あっ、あはははははははは!」 「うふふふふふふっ」 「あっはっはっはっは!」  マスターや周りの常連客たちがドッと笑いだす。一体何が起こったのか、木綿子には訳が分からない。 「わっ、私、何かおかしいこと言いました?」 「いや、違う違う。そうじゃないんだ」 「史郎ちゃん、やっぱり店名変えた方が良いんじゃない?」 「一発で読める人、そうそういないよ」  店内に未だに笑い声が響く中、木綿子だけが置いてけぼりだ。不安そうな顔をして、キョロキョロと周りを見ている。 「え? え?」 「この店の名前はね、前オーナーでマスターだった僕の祖父が付けたものなんだ。狼の森と書いて「()()()()()」って読むんだよ。あそこに宮沢賢治の童話集があるだろう? あの中の一編から貰って付けたらしいよ」  マスターは古い造りの本棚を指差す。そこには古そうな本が並べてあり、宮沢賢治の童話集はその中の一角を占めていた。 「そうだったんですか。私、知らなくて……」 「良いんだよ。本当に大概の人は最初から正しく読めないから、気にしないで。そして、僕の名前は杜崎(もりさき)史郎(しろう)だ。よろしくね。明科木綿子さん」
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