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家なき娘(こ)はコーヒーの香りに惹かれて①
カランコロンと、アンティーク調のドアに取り付けられたベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
マスターの低く穏やかな声が、やってきた常連客を出迎えた。客は迷いなくカウンター席に座る。そこは彼女のお気に入りの場所。
「いつものブレンドコーヒーセット、お願いね」
「かしこまりました」
注文が入ると、マスターは棚に並べてある広口のガラス瓶のうちの一つを取り出す。「ブレンド」と書かれた瓶に入っている豆を量って、業務用のコーヒーミルにセットした。
ガガガ……と少しけたたましい音を響かせ、ミルはコーヒー豆を挽く。最適な細かさになったコーヒー粉は、ドリッパーにセットされたフィルターの中に移された。
鼻孔をくすぐられ、常連客の女性は目を細める。いつものこの瞬間が好きなのだ。香りだけで美味しいコーヒーが目の前に出されるのが分かる。期待に胸が踊り、待つ時間はいっそう楽しいものになる。
ここはCafe狼森。
ごく普通の喫茶店。
***
「ねえ、史郎ちゃん」
「なに? 刈谷さん」
常連の老婦人が、若きマスターを手招きした。
「あそこなんだけどさあ……」
マスターに耳打ちしながら老婦人が指差したのは、カウンターの端の席。若い女性がカウンターに突っ伏してピクリとも動かない。彼女の頭の横には、すでに飲食が終わったカップとデザート皿が置いてあり、これ以上注文を入れる様子もない。
「私がここに来てから三十分もああでしょう? そろそろ起こした方がいいんじゃない?」
「うん……まあ、そうなんどけど……」
マスターは件の客が店に入ってきた時のことを思い返す。
少し古びた登山用のリュックサックに、大きなキャリーケース。ゴロゴロと重そうな音を引き連れて彼女はやって来た。疲れた顔をして店の前で立ち止まったのは、コーヒーの匂いに惹かれたからだろうか。入ろうかどうしようか迷っていたところを、見るに見かねて招き入れたのだった。
何しろ十五分間も店の前でオロオロとしていたのを、ずっと店の中から見ていたのだ。他のお客の迷惑にもなりかねないと、マスター自らドアを開けた。
「コーヒー、飲んでいかれますか?」
そう声をかけたときの、安堵の表情が印象的だった。「救い主が現れた」とばかりに輝かせる瞳に、うっかり拾い物をしてしまった感がしなくもない。けれど──。
〝可愛かったんだよな……〟
見上げられたときに見た笑顔に、彼は魅せられてしまった。大きな荷物を抱えた姿が痛々しかっただけなのかも知れない。それでも、ふんわりとした笑顔は彼の心を捕らえてしまったのだ。
大荷物二つは今も彼女の足元にある。この店に来るまで、どこをどう彷徨っていたのかは分からない。けれど、まるで夜逃げの様相は、何か訳ありだと容易に想像はつく。
コーヒーを飲んだにも関わらず、疲れきって眠ってしまったほどだ。無理に起こすのは躊躇われる。しかし残念ながら、ここは宿屋ではないのだ。
「お客様。起きてください」
そうっと食器を片付けた後、マスターは彼女の肩を揺り動かした。
「ん……」
まだ眠そうに薄っすらと瞼が開かれると、彼女は起こした相手をぼんやりと見る。パチパチと瞬きを繰り返していると、頭もようやくハッキリしてきたらしい。寝ぼけ眼をカッと開き、いきなりガバッと飛び起きた。
「すみません! 私、寝てしまって……」
「いや、別に──」
「ねえ、あなたそんなに大荷物でどうしたの? 引っ越し?」
マスターの言葉を遮って、刈谷のマダムが彼女に声をかけた。ニコッと人の良さそうな笑顔だが、何とも言えない圧がちらほらと見え隠れする。好奇心旺盛ということなんだろうが、お節介が過ぎるのも良し悪しだ。しかし、こう出てきたマダムは止められない。
〝仕方ないな〟
彼女にお任せしようと、マスターは一歩後ろに引いた。
「あ、あの……」
いきなり声をかけられたら、狼狽えるのも仕方がないだろう。若い女性は不安そうに視線を彷徨わせていたが、やがて決心したかのようにマダムと目を合わせた。
「あの……引っ越しと言えばそうなんですけど……えっと……お世話になろうと思っていた下宿屋さんが、さっき行ったら取り壊しの工事を始めてて……」
「え」
「まさかそれ」
刈谷のマダムとマスターは驚きの声を上げると、お互いの顔を見合った。二人の訳知り顔に、若い女性は少し不安そうに尋ねる。
「陽だまり荘というところなんですけど、ご存知なんですか?」
「ご存知もなにも、うちよ。うち!」
「えっ?!」
マダムの言葉に、今度は女性の方が言葉を失った。目指す場所の家主がこんなところにいるとは思わなかったのだ。一瞬喜色ばんだが、マダムの更に重ねた言葉に彼女は顔を青くしていった。
「もう随分と古い建物だったから、壊してアパートにするのよ。管理人をしていた母も亡くなって二年経ったし……」
「そ、そうだったんですか……。私……父の昔の日記に書いてあったこちらなら、と思って来てみたんですけど……」
「う〜ん、でも、いきなりってのは無謀だと思うのよ?」
「仰る通りです……。ちゃんと、良く調べなかったばっかりに……」
女性はすっかり項垂れてしまった。後ろに流していたふんわりと緩い癖のある長い髪が、はらりと肩から流れて彼女の疲労感を表している。意気消沈の彼女をなんとか励まそうと思うが、マスターには何も言葉が見つからない。
──カランコロン。
一瞬の沈黙を突いて、軽やかにドアベルが鳴った。その音でハッとなったマスターは、咄嗟に仕事モードへと切り替える。
「いらっしゃいませ」
新たなお客に声を掛けた後、刈谷のマダムにも「ここ、頼みます」と小さく声を掛ける。「任せて」と言うマダムにホッとし、マスターは仕事へと戻っていった。
「よう、史郎君」
「いらっしゃいませ、土田さん」
二人用のテーブル席に座った中年男性に、マスターは水の入ったグラスとおしぼりを出した。
「今日は何にしますか?」
「う〜ん、そうだな……。キリマンジャロかモカか……うん、モカで頼むよ」
「かしこまりました」
カウンターの様子が気になったらしく、土田という客はマスターの後ろを覗き込む。水を運ぶ時にチラリと見て、マダムは彼女の隣の席に移動していたのをマスターは確認していた。
「初子さん、また何かに首突っ込んでる?」
「ええ、まあ」
少し肩を竦めて答えるマスターに、客も僅かに苦笑いをする。
「ははは、もの好きだねぇ。でも、あの人なら何とかなるか」
「そうですね」
頷いてから「では、ごゆっくり」と言うと、マスターはカウンター裏のキッチンへと戻った。棚からモカとラベルが貼ってある瓶を取り出し、一杯分のコーヒーを淹れる準備をする。てきぱきと手を動かしながらカウンターの端に目をやると、マダムはうんうんと頷き女性の話を聞いている。上手いこと彼女の身の上話を引き出せたようだ。後で詳しく聞くとして、彼はコーヒーを淹れることに専念した。
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