太一の夏

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太一の夏

 見んこと、きれい。   「見てしまった。だけど、芳ちゃんはきれいだ。」  自分でも驚くほどに、つっかえずに言えた。  僕は帰らぬ。  将来を誓うことなど決して出来ないのだ。  唇を奪って、きれいな芳ちゃんを汚してはならない。  僕はありったけの努力で芳ちゃんの肩から自分を離した。  離すことも痛かった。  焼けているように。  僕は上着を脱いだ。  つぎだらけの肌着一枚になった。  芳ちゃんは大きな目をさらに見開いた。 「芳ちゃんはきれいだ。」  僕は芳ちゃんに上着を差し出した。 「これを上から巻いて、もんぺを隠して帰るといい。」  芳ちゃんの右手がおずおずと伸びる。僕の上着を受け取った。  芳ちゃんが何か言うような形に口を開きかけた。  その下唇に、噛みしめていた歯の、痕。  鮮やかな赤。  僕は身をひるがえし、雨の中へ飛び出した。  剥き出しの肩に雨粒が痛い。  僕は飛んでいる。  雨雲の中を、嵐の中を、飛んでいる。  僕は力の限りに走った。  背後で芳ちゃんの呼ぶ声が聞こえた気がした。  雨音にかき消される。    聞き返すことなど、出来るはずもない。  力の限り、走る。  これが僕の飛翔だ。  最初で最後の。      覚えていてくれたら。  いつまでも覚えていてくれたら。  それだけで、良い。  それだけで、良い。 《 完 》
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