芳乃さんの夏

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芳乃さんの夏

「よかれんしゅうせい、だったの。」  芳乃(よしの)さんは今日もわたしを見上げて、穏やかに微笑んだ。  穏やかで、でもどこか寂しげな芳乃さんの顔。  芳乃さんは若い頃、美人だったんだろうなぁと思う。 「そうですかねぇ。」  わたしがあいまいにうなずくと、芳乃さんがまた語り出す。 「言えなかったのよ。太一(たいち)さんに、言えばよかったと思うのよ。今はね、思うの。」  憂いを帯びた目元。くぼんだ皮膚の中の黒眼。  わたしはそっと芳乃さんの手を水洗レバーから外す。 「芳乃さん。そろそろいいですか?他の方も入りたいって。」  あらあら、と芳乃さんは品良くころころと答える。  わたしは蛇腹式のカーテンを開けて、芳野さんの車椅子を後ろから引いて、一緒にトイレから出た。 「芳乃さん、お部屋に戻られますか?自分で行けますか?」  わたしは芳乃さんの左耳に伝える。 「はいはい。」  芳乃さんはゆっくりゆっくり車椅子をこぎ始める。  待っていた他の利用者さんが、不平を呟く。 「あのひとはいっつも水をざぁざぁ流して。もったいない。」  わたしは苦笑いする。  他のトイレの個室だって空いているのに。  わざわざ教えに来てくれるんだから。  わたしはトイレ介助に入る前に、ちらっと廊下を確認した。  芳乃さんが言い残したこととは、何だったのだろう。  いつの時代の話だろう。  芳乃さんはゆっくりゆっくり遠ざかっていく。
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