<1>「月下」

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<1>「月下」

 濃紺の空間。深い、深いブルー。冷ややかな色、なのに何故か仄かに温もりがある。  その中に浮かぶ金色の光。月の明かりと星の輝き。  そして遠くに赤い鳥居が小さく霞んでいる。  優しい雰囲気はない。でも、冷たさもない。  柔らかさもないが、厳しさもない。  海のような、空のような広がり。  総ての矛盾を受け止める広大な空間。  決して大きいわけではないその絵なのに、見る者の目によってその心の空間一杯に拡大されてしまう。  生駒湊(いこまみなと)は裸のままその絵の前に立った。  月光に照らされた絵、その中で輝く月。  窓の外に目を遣る。明日は満月だろう。  ほんの少しだけ欠けた丸い月。薄い雲がかかり、そのまま通り過ぎて行く。  風が、強いのかもしれない。  河野玲二(こうのれいじ)画伯のアトリエ。  この間テレビに出てたっけ。  湊は動画の中の光景を思い出す。  こうして何度も訪れているこの部屋が、まるで知らない空間に見えた。  空々しい雰囲気、やけに芝居がかった河野の口調。  おかしくて、思わず吹き出してしまったのを覚えている。  ただ、変わらないのはこの絵。  この絵だけは同じだった。確かに完成度は進んでいるが、その持つ雰囲気とイメージだけは変わらない。  額にかかった前髪をかき上げながら、湊は目線を逸らした。  オートコントロールの空調。寒さも暑さも感じない。  当然湿度もコントロールされている。  ――――絵は、とてもデリケートだから。  河野はいつも湊を丁寧に扱う。どんな時でも。  ――――湊も、絵と同じでデリケートだからね。  そう言って、優しく抱きしめた。  そう、いつだって河野の腕は優しい。  でも。  河野の絵に優しさを感じたことは、今までに一度もない。
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