プロローグ

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プロローグ

(あぁ、やらかした)  初めて見た天井を認識してスバルはそう思った。  沈む身体は心地いいので今回はベッドの上で転がっているのだろう。しかもかなりの上質なものだ。ふかふかしていてウッカリまた微睡みそうになる。決してこの質はラブホテルでは味わえないと確信して、そこでやっと上体を起こした。 (は?ここ、まじか)  思わず心の声が口から出そうになって息を吞む。  脱ぎ散らかした衣類や置き捨てられた鞄は毎度の風景ではある。しかし部屋の概要は全く予想の範疇外だった。  スバルの審美眼はそこそこにあった。だからベッドの質の違いにも即座に気づけたのだが、視界に映る液晶の大きさとか革張りソファの光沢といった、あからさまな高級品に度肝を抜かれた。床に敷かれたラグなんかはシンプルに見覚えがあるブランドマークがある。審美眼なしでもわかるそれらは客室に置くものでは決してない。  そして、何よりも目を背けてはいけない腰の痛みにもう一度天井を仰いだ。やらかした。大いにやらかしやがった。 (なんでホテルに行ってないんだよ!)  スバルは俗に言う「ビッチ」だ。特定の恋人を作る気がなく、遊びたい時に街に繰り出してその夜限りの相手を捕まえる。そこに至るまでの経緯は大概おぼろげで、今日のように起きてから現状を知ることが多かった。酒を飲まなきゃいいのにその席が楽しいから仕様がない。  ただし、酔っていても自宅に上がることは未だかつてなかった。街に点在するラブホにスバルから連れ込んでいると、後日聞かされた時は少しだけ申し訳なく思った。しかし慣れというのは恐ろしく、互いにパーソナルスペースを知られたくないという利害の一致で次第に周りがスバルの潜在的な行動を許容し始めた。その頃にはドライで合理的な相手から求められる事も増え、探す手間が減っていた。  そんな訳でいつもなら記憶がなくても何処かのホテルで目覚めていたのだ。後腐れないように、戯れだと認識するために。爛れた絡みだがお互いの為にと簡潔にした鉄則。それが今日破られてこんな上級階級の自室で致したなんて微睡みも一瞬で消え去ってしまう。昨夜何があったかはどんだけ捻り出そうにも記憶にない。悪癖もここまできてしまったのかと途方に暮れてしまいそうになる。  だからといってスバルの行動は変わらない。一通り昨晩の自分に呪詛を吐いた後は、ゆっくりとベッドから降り立った。足元が覚束ないが、此処で躓いてはいつまでも動けない。極力音を立てないようにフラフラと衣服を手にしていく。その間、物音一つも立てはしない。スバルなりに睡眠の妨げになってはいけないという気遣いだった。単に起きられても面倒なだけでもあったが。  壁に掛かった黒い時計は6時を指していた。現在地は分からないがタクシーを拾えさえすれば、何とか一度帰宅を挟んで出社しても間に合うだろうとアタリを付けた。  何とかヨレヨレにならない程度に衣服を整えて、鞄の中から財布を出す。いつもなら宿泊費と色を付けた紙幣を置いておくのだが、今回はイレギュラーだ。スバルは腰に手をあてて悩んだが、そういえばと腰から尻の辺りを撫でてみた。  下腹部の中まで感じる鈍痛。つまり奥の奥まで侵入を許したのだろう。そうなるまでに酷使した身体は、しかしベタつきや汚れなどなく、しっかりと綺麗になっていた。今でさえフラフラなスバルが事後に入浴してから寝たとは考えにくい。  だとすれば、導き出される結論は一つしかないわけで。 「余計な事しなくていいのに」  スバルの口から小さい声が漏れた。それはとても掠れたもので、いかに昨晩盛り上がっていたかが分かって渋面が深まる。  恋人扱いはスバルには必要なかった。真綿のような施しが見えない首輪に思えて虫唾が走ってしょうがない。ピロートークは要らないし、後処理などされても感謝なんかしない。精々手間賃を上乗せした紙幣を置くぐらいしかスバルには出来なかった。 (最後にお節介の顔でも拝んでやろう)  同じ轍は踏みたくない。また会った時にはもう遊ばないよう頭に叩き込んでおかなくては。そう思ってやっと存在を無視していたベッドの住人を覗き込んだ。  まず目に入ったのは亜麻色の短髪だった。ツーブロックで刈り込んでいるが、深いところまで同じ色なので地毛なのだろう。暗い部屋のなかカーテンの隙間から差し込んだ光で反射する頭頂部がスバルの黒髪と違って明るい。閉じている瞳を差し引いても鼻は高く、全体的に整って見えるその風貌に舌打ちしたくなる。おまけに無駄な脂肪がないだろう肉体がシーツ越しでも分かってしまって憎らしさが増した。忘れられないイケメンだ。こいつとはもう絶対会いたくない。  もう長居は無用だろう。スバルは男に背中を向けて荷物を手に静かに部屋を出た。
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