あいまい傘

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 傘を杖のようにしながら歩いていると、ポツンと声がした。 「ああ、潮の香りがするねえ」 「今日、体育があったからそのせいかも」 「あん? 違えよ、汗臭いって意味じゃねえよ。気持ちいいくらい降った雨のあとは、こうやって海の匂いがするんだ。お前もするだろ? 潮の香」  試しに襟の辺りを引っ張ってすんすんと嗅いでみるが、水っぽい匂いしかしない。 「あの雨は海から来たのかもな」 「海ねえ」  ここは内陸なので、海に面してはいない。あの積乱雲は相当降りたいのをこらえてここまで来たことになりそうだ。  肩にかけていた鞄を直すとき、少し持つ手が揺れて傘の先を蹴ってしまった。「あ、ごめん」 「なんだよ、傘に痛覚なんかあるもんか。もしあったら、今頃骨が折れてぴいぴい泣いてるところだ」 「なんだ、謝って損した」 「俺としては、さっきから隣でぐっぽぐっぽと鳴ってるその靴のほうを気にしてほしいな。どうしたらそんな、中敷きまでぐっしょり濡れるんだ?」 「簡単だよ、夕立の中、傘もささずに歩いてればいいのさ」 「そんなことしてるから、全身びしょ濡れなのか」  鏡を見てないから知らないが、今の僕は、海の中から這い出たような有様のはずだ。下着までぐっしょりだし、なんなら鞄の中まで余すことなく濡れている。きっと今日もらったプリント類は全滅だろう。 「一つ聞くが、お前のその鞄の中の傘はお守りなのか?」  驚いた。確かに鞄の中にはひとつ、折り畳み傘が入っている。 「いいや、ちなみに壊れてもいないよ。単にそういう気分だったんだ」 「どんな気分?」 「濡れてもいいかなって気分」 「失恋でもしたのか?」 「はあ?」  すっとんきょな声を出していると同時に、笑みが浮かんでいるのがわかった。傘の口調がこちらを気にしているのが少し面白かった。 「そんなんじゃないよ。ただ、僕が濡れることで、誰かの不幸がひとつ消費できたらって思っただけ」 「それこそ、はあ? だ」 「なんとなくそう思うんだ。自分の不幸ってのは、自分で解消できるもんじゃなくて、近くの、その辺の誰かに渡すことで終わりになるんだって。だから今の不幸も、誰かの不幸をもらったから、それを消費したんだよ」 「誰かの不幸をもらって、その誰かも不幸になったら、解消されるどころかどんどんたらいまわしにされていくだけじゃねえか」 「だから、誰かが止めなくちゃいけないんだよ」  カツン、と傘の先がなにか固いものに当たった。小石だったらしく、二、三回はねたそれは側溝に落ちて見えなくなった。 「今回は僕が止めた。それだけだよ」
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