《一》

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   桂川が陽光を照り返している。光りの粒が川面で跳ねる。樹間から見えるその情景を源為朝(ミナモトノタメトモ)はただ睨みつけた。初夏の良い時季だが、為朝が薫風を感じる事はない。獲物を狙う狼が如く為朝は中腰になり、草の中でじっと息をひそめていた。傍らで弟の為仲が唾を呑む音が聞こえてきた。為朝は弟に笑いかけ、背筋を伸ばすや、諸肌を脱いだ。鍛えに鍛え、岩肌のようになった為朝の上半身が露になる。為仲がため息をつく。為朝は微かな満足感を覚えた。為仲に何か声をかけてやろうとした時、桂川に屋形船が現れた。為朝は右肩から袈裟にした強弓玉風(タマカゼ)を外し、左手で取柄を掴んだ。玉風は見上げるほどに大きい弓だ。弭巻き(ハズマキ)が一尺ほど頭上にある。為朝は腰にぶら下げた箙(エビラ)から、ほとんど銛にしか見えない巨大な矢を取り出し、玉風につがえた。鏃(ヤジリ)は綿貫(両側に刃のついた横広の鏃)を選んだ。征矢(ソヤ)(細く鋭い鏃)に比べて貫通力は劣るが、物を破壊するにはこちらが向いている。為朝は弓弦を引き絞った。玉風がしなり、巨大な満月のような形になる。 「おお、おお」 為仲が興奮した声をあげた。弓を支える為朝の左腕は右腕よりも四寸(約12センチ)長い。幼い頃から弓の鍛練を繰り返すうちにそうなった。左腕が右腕よりも長いゆえ、矢をより強く引ける。左腕の長さにくわえ、身の丈六尺二寸(約186センチ)の大身には膂力があり余っているのだ。 「嘘じゃなかっただろう、為仲。俺は一人でこの強弓を引けるのだ」 「おう、おう、おう、八郎兄者」 為仲が半狂乱になっている。
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