第一部 一話 反撃開始

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第一部 一話 反撃開始

月刊OH!カルト8月号 特集ページより一部抜粋。 『ヨミの騒動を覚えている読者は非常に多いことと思われる。 つい先日の出来事であったし、近年稀に見る大規模テロであったことも要因だろう。 ヨミという女が現れて、数十人が自殺した。 自殺という極めてプライベートな事柄でありながら、それが数名あるいは十数名同時に行われたこと、さらに複数の場所で複数回行われたことから、政府や報道機関は組織犯罪ではないかという見解を発表しているが、テロとの明言までは避けている。 弊誌でも繰返しお伝えしてきたヨミ騒動であるのだが、このたび決定的な情報を弊誌記者が入手したのでここに告発する。 まず、ヨミ騒動の主役となった女、ヨミとはなんなのか。 西新宿で射殺されたヨミ・丸山理恵の身元はすでに判明しているし、動機についての考察も各社メディアが連日にわたって報道している。 しかしその結論については下記の通りだ。 『よくわからない』 丸山理恵個人については、弊誌含めありとあらゆるメディアが調査取材を行っているにも関わらず、集団自殺テロを主導する動機も背景も見えてこない。 そこで筆者は考えた。 「丸山理恵は自殺テロの主導的な立場ではなく巻き込まれた被害者だったのでは?」 その観点に立って取材を進めた結果、さらには丸山理恵のご遺体を調査、果ては除霊する場に同席するという幸運に恵まれた結果、目撃した一部始終を掲載するに至った。 これから書くことは筆者が自身あるいは取材先から直接見聞きした『事実』であることを明言する。 信じるか信じないかは読者自身にお任せする。』 ……………。 『月刊OH!カルト』が天道宗の告発記事を掲載してから1週間。 世間では結構な騒ぎになっていた。 OH!カルトの記事を中堅のネットメディアが取り上げたことで火がついて、内容のヤバさからあれよあれよという間にSNSで炎上。 賛否両論ごちゃ混ぜになって今でも燃え続けている。 事前に篠宮さんから相談を受けてはいたが、ここまで見事に炎上させるとは思っていなかった。 民明放送の会議室でOH!カルトの特集ページを読んでいる面々を眺める。 ディレクターの阿部ちゃんも小林さんもすでに特集は読んでいたが、民明放送の社長なんかは初めて読むらしく困惑した顔をしている。 系列会社とはいえマニア向け零細雑誌の紙面まで把握していないのは当然だし、ネットに疎い社長がSNSで炎上しているだけの案件を知らないのも無理はない。 ひと通り読み終えた社長が顔をあげたところで、阿部ちゃんが話し始めた。 「その特集記事が発表されたのが1週間前で、ネットでは現在かなり話題になってます。さすがに新聞や大手メディアは取り上げませんけど、編集部が無料で転載許可を出してるので、個人ブログやSNSでひっきりなしに画像が使われてますね」 阿部ちゃんの話を半分ほど理解した社長がウンと頷く。 天道宗の特集ページには篠宮さんが撮影した悪霊の写真や、丸山理恵に施されていたという呪術の写真が掲載してあり、自己責任により転載利用可能としてあるので、霊障を恐れないネットユーザー達が不謹慎に大騒ぎしている。 「ジローさんとも話し合ったんですけど」 阿部ちゃんが俺にチラッと目を向けて続ける。 「この騒動の発端はウチの番組なんで、ウチとしても黙っているわけにはいかないなと思ってます」 うんん…と社長が唸る。 「……どうするの?」 社長の問いかけに今度は俺が答える。 「明日の怪談ナイトでこの特集を大々的に取り上げようと思ってます。篠宮さんの目的は、大騒ぎしてこの天道宗という団体を世間に認知させることですから」 「大丈夫なの?この記事が確かなら、相手はヤクザみたいな連中なわけでしょ?」 ヤクザか。 たしかに、脅しや暴力で要求を通そうとするやり方はヤクザと変わらない。 警察を頼れない以上、ヤクザよりもタチが悪い。 「まあ、大丈夫とは言い切れませんけど、ネットがこれだけ騒いでる中でウチがだんまりってのは通用しないかと」 不安そうな社長に申し訳ないと思いつつ続ける。 「阿部ちゃんも言ってましたけど、そもそもの発端は俺達の番組ですし、あの騒動で亡くなってしまった人達への償いという意味でも、俺達はこの問題の当事者であり続けるべきだと思うんです」 小林さんが悲しそうな顔で俯いた。 立花さんや勧請院さん、高頼寺の人達のことを思い出しているのだろう。 リスナーさんには申し訳ないが、やはり顔を合わせた人達の死は今でもキツい。 「もしも何かあればすぐに対応できるように篠宮さん達が連携してくれています。なのでそれほど危険ということもないと思ってます」 ウームと唸って社長が腕を組む。 そのまま目を閉じて数秒、やがて目を開け腕組みを解いた。 「わかった。思う通りにやっちゃって」 吹っ切れた顔でそう言った。 「ありがとうございます」 俺の言葉に阿部ちゃんも社長に頭を下げて礼を言う。 社長が去った会議室で、そのまま明日の番組の打ち合わせを行う。 幸いなことにというか篠宮さんの意向で、特集記事の内容を読み上げることも可能なので、脚本らしい脚本はいらない。 記事を紹介しながら俺と小林さんで天道宗を煽りつつ、リスナーさんに警戒と情報提供を呼びかける。 小林さんは不安そうな顔で俺と阿部ちゃんの打ち合わせを聞いている。 ついこの間、死ぬほど怖い目にあったばかりだし、今度は天道宗に対して明確な敵対行動を取るのだから当然だろう。 小林さんや阿部ちゃん、スタッフや社長のことも守らなければならない。 このまま何もせずに傍観することもできる。 「……………」 それで良いわけがない。 あの時、篠宮さんにどれだけ助けられたか。 皐月さんの祈祷でどれだけのリスナーさんが救われたか。 「小林さん」 簡単な内容の打ち合わせが終わったところで小林さんに声をかける。 「はい」 小林さんが返事をして俺と目を合わせる。 「基本的には俺が喋るだけだし、小林さんは相槌だけで構わないから、怖いだろうけど頑張ってくれる?」 「え?…ええはい…もちろんです」 驚いたのかコクコクと首を振りながら答える。 「誰かに代役お願いする?」 阿部ちゃんも小林さんを気遣ってそう言ってくれる。 「俺や阿部ちゃんはもう腹くくってるけど、それを小林さんに押し付けるつもりはないよ。代わってくれる人がいるならそれでも構わない」 小林さんは一瞬考えた後、 「大丈夫です。私も当事者ですから」 と言った。 そして翌日、俺は篠宮さんとLINEで最後の打ち合わせをして、番組開始の時間を待った。 深夜1時。 いつも通りにタイトルコールとイントロが流れて、放送が始まった。 阿部ちゃんのキュー(トーク開始の合図)に合わせてゆっくり深呼吸をし、いつも通りの言葉で喋り始める。 「はい。今夜も始まりました。毎週金曜の夜にお届けする怪奇な番組『怪談ナイト』のお時間です。進行を務めさせていただくのはわたくし、怪談蒐集家の近藤ジローと」 「民明放送アナウンサーの小林明美です!」 小林さんもいつも通り元気よく挨拶をする。 不安はあるだろうが、腹を括ってくれたのだろう。 「えー、今日はですね、いつもと少し違う内容と言いますか、とある雑誌のですね、特集記事に乗っかって、この番組でもスペシャル企画としてお届けすると、そういう感じなんですけども」 「はい。その雑誌というのは月刊OH!カルト。オバケやUFOなど超常現象をテーマに毎月発売されているオカルト雑誌です」 「以前にもウチとOH!カルトさんでコラボしたりとか、心霊写真鑑定ライブの事件の時にも特集が組まれたりとか、まあなにかと仲良くさせてもらってる雑誌なんですが、今回はOH!カルトさんの特集記事の内容をですね、この番組でご紹介しつつ色々と言いたいことを言ってみると、そういう企画です」 「一応リスナーの皆さんにご説明させていただくと、私達の会社が民明放送、OH!カルトさんの会社が民明書房、ようするに系列会社なんです」 「そうそう。それで今回はOH!カルトさんの特集記事をウチでもやっちゃうと、まあコラボみたいな感じですね。それでその特集記事の内容なんですけども、小林アナ、ざっくりと紹介してくれますか」 「はい。先週発売された月刊OH!カルト8月号、その特集のタイトルがですね、『邪教天道宗がテロを企んでいる!?』という…」 「まあすごいタイトルだよね笑。こんなの出しちゃって大丈夫なの?っていう」 「実際出ちゃってますからね」 「そうなんだよ。それでネットではただいま絶賛炎上中。リスナーのみんなも知ってる人は多いと思うんだけど、まあとにかくよく燃えてるよね」 「はい。ウチの番組宛にも結構質問が寄せられてまして、あれは本当なの?っていう」 「そうそう。だから今日の放送ではですね、そこらへんを俺の知る限りの情報で深掘りしていきたいなと」 「まあぶっちゃけ私達も当事者ですからね」 小林さんが踏み込んできた。 腹をくくったからにはとことんやってくれるようだ。 「そう。俺達も当事者なの。これからそれを説明しますね。まずは数ヶ月前に起きた心霊写真鑑定ライブの事件まで遡ります。その時にリスナーさんから持ち込まれた心霊写真を大量に収めた箱、その箱のせいで大変な事件が起きちゃったんだけど、それはまあ過去のアーカイブを聞いてもらうとして、その箱を作ったのが天道宗という団体でした。その時はそれで終わったんだけど、ついひと月ほど前に起きたヨミの事件、それに繋がっちゃうと」 「ヨミに関してはこの番組でも取り上げましたけど、結局なんだったのか、全然わからないままでした」 「そうそう。それでどうしてヨミと繋がったのかというと、心霊写真鑑定ライブの事件で何人かの霊能者が集まって合同で除霊をしてくれたわけなんだけど、その時に居た霊能者のうち3人が先日、ヨミの遺体を除霊したと、特集記事にはその時の様子が詳しく書かれています」 「ようするにOH!カルトの編集者さんが除霊を出来る人で、2つの事件両方に関わっていたからこそ、鑑定ライブの事件とヨミの事件の繋がりが分かったんですよね」 「その通り。それでこのOH!カルトの編集者が天道宗を探っていったところ、鑑定ライブの事件を引き起こした箱と同じような箱が他にもあって、それを使ってとある経営者を脅迫していたことがわかった。その経営者から箱を預かって除霊してみたところ、鑑定ライブやヨミ事件と同じタイプの悪霊が出てきたと」 「あ、早速番組のTwitterに反応が来てますね。『本当のことなの?』っていう書き込みが多いみたいです」 「ズバリ言いますけど、これ全部本当の話です。鑑定ライブの事件でリスナーのみんなも見た通り、悪霊って実際にいるわけなんですよ。それで箱を作った天道宗は他にも同じような箱を作っていて、それを使って経営者を脅迫した事実がある。それで他にもまだまだ箱があって、現在進行形で天道宗に脅迫されている人もいるだろうと。特集記事ではそこまで踏み込んで書いてる」 「脅迫されていた経営者さんははっきりと天道宗って言ったんですかね?」 「いや、記事によると経営者さんは脅迫してきた相手が天道宗とは名乗らなかったって証言してる」 「じゃあどうして天道宗の仕業ってわかったんですか?」 「まず第一に鑑定ライブの事件を引き起こした箱、それと経営者さんの自宅に送られてきた箱、両方に仕掛けられていた呪術が完全に同一だったこと。これは実際に箱を調べた高頼寺のお坊さんが証言してる」 「高頼寺さん、本当にお世話になったし犠牲者も出てしまって、それでも今、お寺を再建中とのことで、頑張ってほしいです」 「本当にね。それで第二の根拠は、実際に除霊をした霊能者3人の見解。よく聞くでしょ?『専門家の見解』って」 「まあ、そうですね」 「3人とも確信してるみたいだよ。『鑑定ライブとヨミと経営者さんに送られた箱の中にいた霊は同じ呪法で作られたものだ』って」 「高頼寺のお坊さんの証言と、専門家の見解、それだけだと証拠としては弱い気がしますけど」 「そうなんだけどさ、そもそも刑事事件になるはずもないし、裁判するわけでもない。呪術ですなんて言っても誰も相手にするわけないじゃん。だからそこは普通の事件とは少し違うよね」 「たしかに」 「それでOH!カルトで告発する特集を組んだと。この番組も鑑定ライブの当事者だし、天道宗には恨みもある。だから俺としてはこの番組のリスナーさんには本当のことを知ってもらいたいと、そう思ってます」 「リスナーさんからの書き込みが増えてますね。『不謹慎だ』とか『天道宗を許すな』とか、そういった書き込みが多いです」 「ネット上の意見とほぼ一緒だね。鑑定ライブの事件でも高頼寺さんをはじめ犠牲者が出てるし、ヨミの事件では数十人が自殺しちゃった。それをオカルトで取り上げるなんて不謹慎だと」 「まあ、そういうご意見が多いですね」 「でもさ、不謹慎だとしても警察がヨミ事件の真相を調べきれない以上、なんらかのアプローチは必要だと思うし、OH!カルトの編集者が実際に除霊をした当事者なんだから、そこに嘘がない限り真っ当な意見な訳だよ。鑑定ライブの事件に関して俺達はリスナーさんも含めて当事者だからね。今更『オバケなんていないよ』と言って科学的な証拠だけを採用する人っているのかな」 「まあ鑑定ライブの時に何も霊障を受けなかった人もいますし、あくまで偶然とか気のせいだと思ってる人がいても不思議じゃないとは思いますけど」 「……高頼寺が燃えちゃったのが偶然?」 あんまりな意見に唖然として小林アナを見る。 睨まれたと思ったのか小林アナが慌てて続ける。 「いえ、私は当事者ですからそんなこと思ってないですよ?ただリスナーさんの中にはそういう意見もあるだろうなって」 「ああそうだよね。ごめんごめん。まあ確かに、そういう意見の人もいるか。でもまあ、俺にとっての真実はOH!カルトの特集そのままですよ。天道宗という宗教団体が死者の霊を冒涜する呪術を使って悪いことをしている。ヨミの事件にも天道宗の関与があると思われる。それが真実」 「あっ。コメント見てくださいジローさん。『小林アナをいじめないで』って書いてありますよ!」 「いじめてない笑。高頼寺の火事が偶然って言われてちょっとピリッとしちゃっただけ笑」 「見てくださいほら。『ジローさんがキレた!』って書いてますよ笑」 「キレてないキレてない笑。だからごめんって笑」 「見てください。コメントにほら『天道宗ゆるさん、ジローさんを完全に支持する』って!」 一瞬ピリついた空気が小林アナの好プレーで和やかな雰囲気に戻った。 申し訳ない気持ちとありがたい気持ちが同時に湧き上がる。 「ありがとうございます。みんながどう思うかはそれぞれの自由だけど、OH!カルトにも俺にも発言の自由があって、それに反対なら堂々と反論を述べる自由がある。ここで注目したいのは、今のところ天道宗から反論のひとつもないってことかな」 「たしかにそうですね」 「名誉毀損で訴えるにしても、まずは反論があって然るべきだと思うんだけど、OH!カルトの発売から1週間経っても一言もなし。どうなんだろうね」 「そもそも気づいてないか、気づいていても黙ってるのか」 「流石に気づいてないってのは考えられないかな。ヨミの事件なんて明らかに世間の目を引くためにやったわけでしょ?ヨミの話題がネットでどうなってるかは今でもチェックしてるはずだよ」 「じゃあ気づいていて黙ってるってことですか」 「そういうことなんじゃないかな。反論できないだけかもしれないし、あえて反論する必要がないと思ってるのかもしれない。これは考えても仕方ないから、とりあえず保留」 「わかりました」 それからしばらく特集記事の内容を喋って、興味がある人はぜひOH!カルトを買ってと宣伝して、そろそろ番組終了の時間が近づいてきた。 「とまあ、これまで色々と喋ってきたわけだけど、ここからは雑誌には書かれていないことをお伝えします」 「え?なんですか?」 打ち合わせにない話を始めた俺に小林アナが若干焦り始める。 まあいつものことだ。 「OH!カルトの編集者とさっきLINEしたんだけど、雑誌の発売以降、凄まじい数の問い合わせや批判が来てるわけなんだけど、その中に箱に関する相談があると」 「ええ?…それって…脅されてた経営者さんと同じ?」 「そういうことだと思うよ。具体的には3件来てるってさ。個人からの相談が1件、宗教関係からの相談が2件」 「1週間で3件。それって多いんですか?」 「いやー、それはわからない。けど今回の特集がバッチリ当たったってことだよね。天道宗のことを世間に認知させて、かつ脅されている人達を救済する。天道宗がその人達を脅して何をしようとしていたのか。それがわかれば天道宗の目的がある程度はっきりしてくる」 「あらー。すごい成果なんですね」 「そうだと思うよ。それともう一つ最新情報」 「まだあるんですか」 「特集記事を読んで天道宗を脱退したっていう人から連絡があったみたい」 「あらー」 「その人には今度取材するらしい。一般の信徒さんはまるきり普通の仏教だと思い込んでるわけだから、どこまで天道宗の実態に迫れるのかはわからないけど、そういう人が増えると良いよね」 俺の報告に呼応するように、番組TwitterのDMにメッセージが届いた。 放送中に届くDMは喋りながらできる限りチェックするので、いつものようにDMを開く。 「………!」 内容を見て一瞬言葉に詰まる。 こういうことがたまにあるから、トークがストップするくらいなら番組中にDMを見るなと小林アナから注意されるのだが、こういうメッセージが届くからこそ見ずにはいられない。 俺と同じようにTwitterを表示しながら喋っている小林アナは、俺の様子に気づいて伺うように俺の喋りを待っている。 「えー……今ですね…番組の方にメッセージが届きまして、ちょっと読ませていただきますね。えー…『ウチの実家が天道宗です。父は60代ですが祖父から受け継いだ仏壇を拝んでいます。鑑定ライブの事件のあと実家を調べたら仏壇の下に不気味な木の箱もありました。父の説得を試みますが箱が怖いです。どうしたらいいですか』と」 「ええ?……」 あえてDMを見ないでリアクションに回った小林アナが驚きの声をあげる。 阿部ちゃんが手振りで残り時間を伝えてくる。 番組終了まで後3分。 「これが本当なら4件目の箱に関する相談が来たってことだよね。これは放送中にはとても終わらないから、メッセージをくれたリスナーさんには放送が終わってからじっくりと相談に乗ろうと思います」 「だ、大丈夫なんですか?」 「わからない。OH!カルトさんにも相談して、まずは箱を回収に行かないといけないね。親御さんをどう説得するのか、そういったことも含めて、これから全部相談しながらやるしかない。番組で報告できることは来週の放送でちゃんとお伝えしますので、期待してお待ちください」 「いいんですか?そんなこと言っちゃって」 「報告できることは報告しようよ。できないことはできない。それはリスナーのみんなもわかってくれるって」 阿部ちゃんから番組終了の合図が来て、エンディングが流れ始める。 「それでは番組終了のお時間がやってきました。毎週金曜日の怪奇なラジオ『怪談ナイト』今夜はここまでです。また来週!」 「さよならー!」 放送中を示す表示が消え、阿部ちゃんが放送ブースに入ってくる。 「お疲れ様でした。天道宗の情報があのタイミングで入ったのは神がかってましたね笑」 上手いこと来週への引きになったのが面白いようだ。 「まあね。これで篠宮さんに面目が立ったよ」 阿部ちゃんに答えつつ番組TwitterのDMに返信する。 すぐに返信があり詳しい相談内容を送ってきた。 やりとりを継続するために俺の個人アカウントへ誘導して、そこにも相談内容の詳細を送ってもらった。 民明放送を出たところで篠宮さんから電話がかかってきた。 「もしもーし」 いつものように電話に出ると、テンションの高い声が返ってきた。 「お疲れ様ですジローさん!今日はありがとうございました!」 「いやいやこちらこそ。放送の内容あんな感じで大丈夫でした?」 「はい!もうバッチリ!」 どうやら思った以上に喜んでくれているようだ。 「天道宗の情報が入ったのもさすがです。ジローさんにお願いして良かった」 「それなんだけどさ、相談してきたリスナーさんとのやりとりはどうする?篠宮さんに任せちゃっていい?」 「んー、それでもいいですけど、せっかくジローさんに相談してくれてるんですし、まずはジローさんがやりとりした方が良くないですか?ジローさん、私と違って有名人なんですから」 まあそうか。 せっかく番組宛に相談してくれたのに、いきなり篠宮さんにぶん投げたら無責任だよな。 「わかりました。とりあえず俺の方でやりとりしてみます。箱を取りに行くとなったら付き添いお願いしてもいいですか?」 「もちろんです。できる限りの人数集めて行きます」 「そこまでするの?」 「はい。今までもそうしてきました。一人で相手するのは危険なので」 「あー……やっぱり危険?」 「逆に言うと、ある程度の人数がいれば大丈夫です。これまでのところ、相楽さんに憑りついていた霊がとびっきりのヤツだったっぽいんですよ」 相楽さんに憑りついていた霊。 鑑定ライブ事件を引き起こしたあの箱によって作り出された悪霊。 そして勧請院さんに憑りついて消えたままの女の霊。 「なるほど。あの時ほど強力な霊はいない?」 「んー、断言はまだできないですけど、ヨミに憑りついていた霊、経営者さんに送り付けられた箱に入っていた霊、どっちも脅威度としては相楽さんに憑りついた霊よりはマシだったので。これからも落ち着いて準備した上で対処すればイケるかなと。まあこの先どんなヤバいのが出てくるかわからないので、油断できないのは変わりないですけどね」 「なるほど」 「経営者さんから箱を預かって祓った時は、ウチの会社の会議室で私の仕切りで祓ってみたんですよ。神宮寺さんと連雀さんと一緒に。会議室をバッチリ清めて何重にも結界張って、それで祝詞を唱えながら箱を開けたら、箱からは出てきたんですけど結界からは出られないっていうのがわかって、そのまま祝詞を上げていたら無事に浄化されていきました」 「なるほど」 実によく喋る。 なるほどしか言わなくなった俺をよそに篠宮さんの口は回り続ける。 「鑑定ライブの時は中にいた霊のヤバさもさることながら、箱が開いた状態で後手に回っちゃったからあんなに手強かったんだなっていうことがわかって、ヨミの時も最初から相手の土俵に上がっちゃってたのがマズかったわけで、不意打ちに合わなければ充分に対処できそうだっていうのが神宮寺さんの見立てですね。私も連雀さんも同じ意見です」 「なるほど」 「この時のお祓いの映像もバッチリ記録してあるんで、これを仲間内で共有して、なんだったらウチのオフィシャルサイトにも載せちゃって、対処法として広く活用してもらうようにすれば、私達以外の霊能者でも対処できるようになります。そうしたらあの箱なんて恐るるに足らずですよジローさん」 そこでようやく篠宮さんは話すのをやめた。 そして怒涛のトークを頭の中で整理している俺に、 「……もしもし?聞いてました?」 と言った。 「……ああ、聞いてる聞いてる」 このマイペースめと心の中でツッコミを入れつつ、とりあえず思いついた質問を投げる。 「ということはつまり、天道宗はもう脅威ではない?」 「いやー、さすがにそこまでは。私達の周りは大丈夫だとして、あとはネットの一部が炎上してるだけですからね。どれだけの人が天道宗に脅されてるか検討もつかない状態です。それにまたヨミが出てきて大量に自殺者が…なんてことになる可能性もありますし。状況はまだまだ悪いです」 ヨミ。 特集記事では、第二第三のヨミが作り出される可能性に言及していた。 「ヨミ…本当に作れるの?」 「間違いなく作れると思いますよ。天道宗はそれを専門にやってきたわけですから」 「…………」 「そうじゃなければ簡単に射殺させるような使い方しないでしょ」 使い方……篠宮さんの言い方も大概だな。 だがその通りだ。 丸山理恵は天道宗によってヨミに仕立てられ、使い捨てられた。 そんな悪魔の所業を再びさせない為にも、しっかりと騒いで世間の注目を集めておかなければ。 篠宮さんとの通話を終えてタクシーを拾う。 家に着くまで相談者のリスナーさんとのやり取りを再開する。 後日訪問して箱を預かるにしても親御さんの説得は不可欠だ。 まずはリスナーさん自身に親御さんを説得してもらう。 鑑定ライブの事件を総括した怪談ナイトの音源を聞いてもらって、天道宗本部から送られた手紙のコピーも提供する。 それからOH!カルトの特集記事まで読んでもらって、それでも信じてもらえなければ箱だけでも回収させて欲しいと交渉する。 相談者のリスナーさんは都内に住む30代の主婦で、旦那さんにはこのことは話していないという。 それなら旦那さんに相談することから始めて、可能であれば旦那さんと一緒に実家の親御さんを説得してもらう。 そこまで方針を決めて、その日のやり取りは終わった。 次の日、早速旦那さんに一連のことを相談して、翌日の日曜日に実家へ行くことになったと報告が来た。 日曜日の夜に結果報告があって、いつでもいいから出来るだけ早く箱を回収しにきてくれということだった。 実家のご両親もまさか自分達の仏壇にそんなヤバいものが安置されているなんて思ってもいなかったようだ。 篠宮さんにその旨を伝えて、仲間の霊能者さん達とのスケジュール調整を行ってもらい、数日後に相談者さんの実家に伺った。 現地で初めて会った時は不安そうな顔をしていた相談者さんだったが、笠根氏と伊賀野氏と篠宮さんが箱に封印のようなことを行なって、丁重に箱を笠根氏の車に積み込んだことで安心したのか、ようやく笑顔になった。 一緒に写真を撮ってくれと言われたので快諾し、俺のスマホでも写真を撮った。 相談者さんの顔をスタンプで隠した写真を番組のTwitterに載せて良いか聞いたらOKしてくれたので、『無事に箱を回収!詳細は次回の怪談ナイトで報告します!』と写真付きでツイートした。 帰りの車内で改めてお礼を伝えると、篠宮さんがイエイエと手を振ってニンマリした。 笠根氏の運転で助手席に俺、後部座席に篠宮さんと伊賀野氏が箱を挟む形で座っている。 伊賀野氏は数珠を巻いた手を箱の上に置いている。 ふいにあの時のことを思い出した。 立花さんの車がガードレールを飛び越えて崖下に落ちていく光景が蘇る。 冷や汗をかき始めた俺とは裏腹に明るい声で篠宮さんが続ける。 「ご両親の説得がうまくいって良かったです。ウチに寄せられる相談の中にはスムーズにいかないケースもあったので」 「どういうこと?」と聞き返すと篠宮さんは眉を上げて口をへの字にした。 「いやー、今回とおんなじような感じで、先祖代々天道宗だった人の説得に行ってみたんですけど、やっぱりその家の宗教の問題なんでデリケートに切り出すじゃないですか。私の切り出し方が良くなかったせいか先方が怒り出しちゃいまして」 「あちゃー」と笠根氏が声を出す。 「えらい剣幕で追い出されちゃいまして、ウチに相談して来た読者さんに説得してもらってるんですけど、なかなかうまくいってないみたいで」 「まあ難しいよねえ。いきなり訪ねていって『あなた邪教に騙されてますよ』なんて言ったら普通は怒るわよ」 伊賀野氏が苦笑しながら言う。 「そうなんですよ。まあ何十年も安定してる箱ですから、無理に預からなくてもいきなり変なことが起きるわけではないんですけど、せっかく相談して来てくれたのに申し訳ないっていう」 篠宮さんの話によるとウチの番組以上に相談が寄せられているらしく、一緒に親や親戚を説得してくれという頼みも多いようだ。 「やっぱりまずはご家族で話し合ってもらって、箱を預かる時だけお伺いするっていうのが一番スムーズなんだと思います。今日の件でよく分かりました。さすがジローさんですよ」 「いやいや俺の場合もたまたまだよ。相談者さんの旦那さんがすんなり信じてくれたのが大きいよね」 「ですよねえ」 相談の数だけ家庭があってそれぞれの家族の歴史がある。 一つ一つの案件に首を突っ込むのは不可能なので、家族や親戚が天道宗だという相談者に向けた対応マニュアルのようなものを作って、OH!カルトのオフィシャルサイトに掲載することになった。 「家族が天道宗っていうケースはそれで良いとして、宗教関係からの問い合わせっていうのはどうなったの?」 話題を変えると篠宮さんの困り顔も普通の顔に戻った。 「そっちはめっちゃスムーズです。前に箱を預かった経営者さんのケースと同じで、天道宗から箱を送りつけられて困った人がお寺とか神社に相談したパターン」 「ほう」 どちらかと言えばこっちが本題だ。 天道宗の悪意に晒されている人達の話だから。 「箱を預かったお寺にお邪魔してみんなで箱を取り囲んで浄霊。ご自宅に箱がある場合はウチの会社で預かってみんなでお祓い。とりあえず今のところは問題なく処理できてます」 あっけらかんと言う篠宮さんに伊賀野氏が吹き出した。 「いやそんなに簡単に言わないでよ笑。めちゃくちゃ大変だったじゃない」 笠根氏が続ける。 「近藤さん、篠宮さんこうやって余裕ぶってますけど、毎回死にかけてますからね」 「ちょっと……」 篠宮さんが何か言おうとしたのを無視して笠根氏が続ける。 「ヨミの時だって死にかけたのに、お寺にお邪魔して浄霊の儀式をした時もなんだかんだピンチでしたから」 「言わなくていいですから!」 焦る篠宮さんとにやけ顔の笠根氏、そんな二人をたしなめるように伊賀野氏が強めの口調で注意する。 「あのねえ、格好つけるのは構わないけど、近藤さんに事態を過小評価させるのは良くないわよ?」 その言葉で篠宮さんがウッとうめく。 「なんとか凌いでるってだけで、毎回みんな命懸けなんだから、神宮寺さんとか連雀さんにも協力してもらったんでしょ?それだけ危険なのはちゃんと伝えないと」 「……すいません」 「いやあ…ははは…まあまあ伊賀野さん」 ぐうの音も出ない篠宮さんを見かねて笠根氏がとりなす。 「篠宮さんはおそらく神宮寺さんの真似をしてるんですよ。あの人の飄々とした感じが格好いいと思う年頃なんでしょうなあ」 「ああ、そういうこと?」 伊賀野氏が口調を弱める。 「……違います」 篠宮さんの抗議は弱々しい。 「まあようするに」 そろそろいいだろうと思い口を挟む。 「その箱も全然安心できないっていう…ことですよね?」 後部座席に振り返り箱を見る。 頭の後ろにじんわりと滲んだ冷や汗が気持ち悪い。 箱を押さえたまま伊賀野氏が「ええ」と言った。 「今は蓋も開いてないし天道宗が施した封印もちゃんと生きてるし私達も重ねて封印したから、このままどうこう、ということにはならないけど、中にいるのは間違いなくヤバい奴ですね」 篠宮さんほどではないが伊賀野氏もあっけらかんと言う。 「ど…どうするんですか?…これ」 「このままウチの唵に行って浄霊する予定です。近藤さんも参加されますか?」 あの時のことを思い出すと恐ろしかったが、怪談蒐集家としての好奇心が勝った。 「ええ、今日皆さんに来てもらうのをお願いしたのは俺ですから最後まで立ち合います。ぜひ参加させてください」 そうして何事もなく車は進み、伊賀野氏の唵に到着した。 個人宅としては豪邸といえる大きさ、しかしお寺というにはこじんまりした邸宅。 伊賀野庵と書かれた大きな看板が掲げられている。 コンクリート作りの、本堂というよりは集会所のような一階の大部屋に、奥側の壁一面を大きな仏壇で飾られている。 いかにも現代風のお寺という感じだ。 黒い袈裟を着たお弟子さん達がすでに準備を終えており、車から降ろしてきた箱を祭壇のような台に乗せた。 伊賀野氏がお弟子さん達に指示を出し、さらに追加の準備をしていく。 やがて伊賀野氏とお弟子さん、笠根氏が箱を囲むように座る。 篠宮さんが手伝いを申し出たが、神社の娘に仏教式の除霊の手伝いをさせるのは気が引けたようで、やんわりと断られていた。 「理恵さんの時みたいに撮影してくれる?」 との伊賀野氏の言葉に頷いてスマホを取り出した。 俺は邪魔にならないように本堂の隅っこに正座した。 チリーンと鈴が鳴らされ、護摩木に小さな火がつけられた。 伊賀野氏は護摩の前に正座してゆっくりと護摩木をくべていく。 壁一面を覆う大きな仏壇があって、箱、護摩、伊賀野氏という位置どりだ。 少し離れた位置に笠根氏とお弟子さん達が並んで座っている。 時折鳴らされる鈴の音と、パチパチと木が爆ぜる火の音。 しばらくそれだけが本堂に響いていた。 撮影する位置を決めかねているのか、スマホを構えた篠宮さんが音を立てないようにそろりそろりと歩き回る様子にハラハラするが、伊賀野氏もお弟子さん達も気にする様子はない。 しばらくして伊賀野氏が読経を始めると、お弟子さん達がピッタリと合わせてお経を唱える。 笠根氏もやや遅れてお経を合わせる。 ゴーンと鳴らされる鐘の音。 俺にはとても聞き取れないお経の声。 鈴の音と火の音。 さまざまな音が重なっているのに、不思議と騒がしいと感じない、ある種の心地よさすら感じる読経が本堂に響き渡る。 しばらく何事もなく読経が続き、こんなもんかと思い始めた頃、それが起こった。 ふと読経の声に違和感を感じ、伊賀野氏達の様子を注視する。 何かがおかしいと感じてよく見ると、どうやら護摩の火が小さくなったように見える。 伊賀野氏が護摩木をくべるものの火のつき方が弱いようだ。 変わらぬ様子で読経を続けながら護摩木をくべ続ける伊賀野氏。 しばらくそうしていると、ふいに護摩の炎が大きく吹き上がった。 ボウッと音を立てて一気に燃え上がった炎が伊賀野氏に触れる。 お弟子さん達が息をのんだのがわかった。 伊賀野氏と笠根氏は構わずに読経を続けている。 護摩木が焼けて爆ぜる音とは別のチリチリという音が聞こえ、髪の毛が焦げる嫌な匂いが本堂に漂った。 あ、と篠宮さんが小さく声を漏らして、構えているスマホを箱に向けた。 篠宮さんの視線を追って箱に目をこらすと、何やら黒い靄が箱から滲み出ていた。 ……何だあれ? あの時と同じだ。 俺にも見えている。 ふいに本堂の隅に一人で座っているのが怖くなった。 除霊中の伊賀野氏達からは5メートル以上離れている。 急に自分が孤独であると意識してしまう。 背にした壁から顔を出したナニかが後ろから俺を覗き込んでいるのでは、そんな想像をしてしまい思わず振り返る。 当然ながら後ろはただの壁でおかしな様子は何もない。 「…………」 怖い。 噴き出した汗が頭のてっぺんから流れて背中を濡らす。 除霊の現場を見学しているだけで恐ろしい想像が掻き立てられる。 『中にいるのは間違いなくヤバい奴ね』 伊賀野氏の言葉が蘇る。 あの、今まさに箱から滲み出てきている黒い靄。 床にわだかまっているその黒い靄が、箱の中にいた霊なのだろう。 それが今にも俺に飛びかかってくるのではという想像に恐ろしくなり、胸の前で手を合わせた。 お経を唱えることはできないが、少しでも仏教の作法を真似たかった。 こっちに来るなよという意思表示をしたかった。 ゴーンという鐘の音が響いた。 鐘を鳴らした伊賀野氏が何かお経とは違う呪文のようなものを唱え始めた。 のうまく……聞き取れないが、繰り返しその呪文を唱えている。 お弟子さんや笠根氏がそれまでと変わらぬお経を唱えている中で、伊賀野氏だけ呪文を唱え始めた。 誰も気にする様子がないので、それで良いのだろうと思った。 ボウと音がして護摩の炎が吹き上がった。 伊賀野氏が呪文を唱える声が大きくなる。 ガタッと大きな音がして箱が倒れた。 倒れた拍子に蓋が開いた。 箱から滲み出ていた黒い靄は人間ほどの大きさになっている。 「…………」 ああクソ、怖ぇなぁ。 頭の中を怖いという言葉が渦巻いている。 怖い怖い怖い怖い怖い。 アレを間近で目の当たりにして平然と読経を続けている伊賀野氏達が信じられなかった。 さらにはそれにスマホを向けて撮影している篠宮さんも。 ミシッと、何かが軋んだ。 ミシッ…ミシッ…と立て続けに聞こえる音。 地震の時に聞こえる建物が軋む音だ。 ボウと燃え上がる炎。 伊賀野氏の声がさらに大きくなり、怒鳴りつけるように呪文を唱えている。 黒い人型の靄がゆっくりと歩き回るように動きはじめた。 こっちに来るなとひたすらに念じる。 どれほどの時間が経っただろうか。 ふと、お弟子さんの一人の読経が乱れ始めた。 皆でピッタリと合わせていた読経から調子外れのようにタイミングがずれる。 お弟子さんの中で一番若い、おそらくは二十代だろう男性の様子がおかしい。 胸の前で合わせた手を前後にゆすりながら必死にお経を唱えている。 周りに合わせる余裕がないようだ。 「高梨くん……高梨くん!」 伊賀野氏が呼びかけるも反応がない。 他のお弟子さん達と笠根氏は構わずに読経を続けている。 みんなが落ち着いてお経を唱えているのに対して、高梨と呼ばれたお弟子さんは汗びっしょりになってお経を唱えている。 そのリズムは完全に読経の和から外れている。 「高梨!」 伊賀野氏の鋭い声が響くが高梨氏はまるで気づかないようで、必死になって一人だけ調子のはずれた読経を続けている。 ガタガタと震えながら一心不乱にお経を唱える。 その声はもはや泣き声に近い。 「高梨!ビビるな!」 何度伊賀野氏が呼びかけても高梨氏には聞こえない。 トリップなのかパニックなのか、とにかく高梨氏の様子はもう尋常ではない。 イラついた様子で伊賀野氏が立ち上がり、高梨氏の前まで大股で歩み寄る。 そして右手を横に大きく振りかぶって、 バチーン! と大きな音を立てて高梨氏の横っ面を引っ叩いた。 顔を張られた高梨氏は一瞬惚けたようになり、ふと顔を上げて伊賀野氏を見上げた。 お弟子さん達と笠根氏の読経が続く中、伊賀野氏は高梨氏の胸ぐらを掴んで引き寄せた。 「だから!ビビるなっていつも言ってるでしょ!」 普段の伊賀野氏からは想像できないほどの気迫で怒鳴りつける。 「……す……すいません……!……」 とうとう泣き出した高梨氏が涙声で謝った。 「……今日はもう外に出てなさい。邪魔よ」 「すいません!……すいません!!……」 高梨氏は泣きながら本堂から出て行った。 フウと息をついて伊賀野氏は箱の前に戻り、再び読経を始めた。 黒い靄は護摩の周りをうろついているが、俺の方へ来ることはなさそうだ。 その後しばらく読経が続いて、気がつけば部屋をうろつく黒い靄がいなくなっていた。 消えたのだろうかと見渡すと、天井に黒い靄がわだかまっているのを見つけた。 先ほどよりもずいぶんと薄くなっている。 そしてそのまま天井に吸い込まれるようにして消えた。 読経の声はやがてゆっくりとなり、終わった。 ピコンと電子音がした方を見ると、篠宮さんがスマホをポケットにしまっていた。 録画を停止する際の間の抜けた音で、除霊が終わったのだとわかった。 「ジローさん、大丈夫でしたか?」 そう言って篠宮さんが歩み寄ってきた。 「え?…ああ…大丈夫…です」 除霊中は全然大丈夫ではなかったが、とりあえずそう答えて立ち上がる。 「ジローさん、さっき、もしかして見えてました?」 「ああ、いや、見えたというか…なんか…モヤモヤした黒いのが……」 「武士ですよ、あれ」 篠宮さんの説明では、箱から甲冑を着た武士の霊が出てきたのだという。 「いつの時代かは分かりませんけど、武士の霊ならお経や真言はてきめんに効くはずですから、今日は和美さんの仕切りで大正解って感じです。私がやるより遥かに有利だったでしょうね」 篠宮さんが先ほどの詳細を説明してくれる。 「箱から出てきた武士の霊が刀を抜いて和美さんに斬りかかろうとしてたんですけど、どうしても刃が和美さんに届く前に止まってしまうんです。それで苛立って何度も何度も和美さんに切りかかってた。和美さんは武士の霊のことを認識してたはずですけど、気にせずお経や真言を唱えてたって感じですね」 篠宮さんの説明によると、刀を振り回して暴れていた武士の霊だが、伊賀野氏にもお弟子さんや笠根氏にも刃が届かないのを悟って、しばらく惚けた後、伊賀野氏の読経に応えるように滲んで上の方に上りながら消えたという。 俺には黒い靄が天井に吸い込まれたようにしか見えなかったが、そういうことらしい。 「武士の霊にお経がよく効くっていうのは?」 篠宮さんの口が止まったタイミングで、気になったことを聞いてみた。 「んー、まあ信仰心の問題ですかね」 「信仰心?」 意外な言葉に間抜けにもオウム返しをしてしまう。 「そうです。武士の時代ってモロに仏教でしたから、まあ武士だけじゃなくて農民も商人もみんなそうですけど、今の時代とは比べ物にならないくらい仏さまに対する信仰が厚かったわけですよ。今みたいに生活保護とかあるわけじゃないし、ちょっとしたことでも行き倒れて死んじゃうような時代で、苦しい生活をしていた人達が、なんとか死んだ後に極楽にいけるようにってそれこそ必死で南無阿弥陀仏って祈ったわけですよね。武士達もそうで、戦って殺して殺されて、死んだら仏って信じて戦に行ってたわけですよ。そんな時代の人達だから、お経って現代の霊よりもはるかに意味がある。本当の本当に心から仏に縋って生きてた人達にとって、南無阿弥陀仏とかのお経って本物の救いなんですよ。それこそ現代の霊とは比べ物にならないくらい。だから昔の人の霊ってなかなかいないんですよね」 「なるほど」 篠宮さんが絶好調に解説を続ける向こうで、立ち上がった伊賀野氏がお弟子さん達に何やら指導をしていた。 「あなた達、今日の霊は手強いから気を引き締めなさいって言ってあったでしょ?」 お弟子さん達は頭を下げたり頬をかいたり、バツが悪そうに指導を受けている。 「高梨君」 伊賀野氏が呼びかけると、本堂の入り口で中を窺っていた高梨氏が戻ってきた。 先ほどのように取り乱してはいないものの、お説教を覚悟した顔をしている。 「高梨君、あのね、ああやって霊の気配に飲まれてたら、下手したら死ぬわよ?」 そう強い言葉を放ったものの、伊賀野氏の顔には苦笑が浮かんでいる。 高梨氏がハイ!すいませんでした!と返事をして頭を下げる。 その肩に手を置いて伊賀野氏が優しく話しかけると、高梨氏はペコペコと頭を下げた。 「和美さんですねえ」 篠宮さんが納得したようにつぶやいた。 「激しさと優しさがちょうどいいのかなんなのか、和美さんってものすごくお弟子さんに慕われてるんですよ。元々は和美さんのお母さんのお弟子さんだったはずなんですけど」 たしかに。 伊賀野氏の指導を受けているお弟子さん達はしきりに恐縮しているものの、嫌そうではない。 高梨氏なんかキラキラした目で若干嬉しそうにも見える。 たしかな信頼関係が見て取れる。 「お弟子さんっていうより、和美さんのファンクラブって言った方がしっくりきますね」 篠宮さんがニヤニヤしながら言った。 「たしかに」 そう言われるとそうとしか見えなくなってくる。 伊賀野庵の主催者と弟子というよりも、姉御と弟分というような雰囲気だ。 「笠根さんの反応が気になるところです」 「ん?私がなんです?」 いつのまにかすぐそばまで来ていた笠根氏に声をかけられ俺も篠宮さんも二人してビクッとなった。 「いやあ笠根さん、お疲れ様でした!」 篠宮さんがごまかすと笠根氏は疑いもなくイエイエと手を振って笑った。 「私はお弟子さん達に混じってお経を唱えただけですからねえ。伊賀野さんの独壇場だったでしょ?いやあ格好良かった」 「でも護摩の火がブワッてなって、お弟子さん達が一瞬怯んだじゃないですか。あの時に冷静だったのは笠根さんだけですし、そこはさすがですって」 「んん?まあ、ああいうことしてくるってのはこれまでの除霊でもわかってましたからね。それに伊賀野さんなら大丈夫だろうって思ってましたし、気にしてなかっただけですな」 はっはっはと軽く笑い飛ばす笠根氏。 一見頼りなさそうに見えて、どうやら笠根氏も相当場数を踏んでいるようだ。 「すごかったですよね。お弟子さんのほっぺをパチーンって」 伊賀野氏の意外な激しさについて感想を言うと、ああと言って篠宮さんはニンマリした。 「和美さんだなあって感じです」 「あの気合いが伊賀野さんの最大の武器なんですよ」 そう言って笠根氏もニッと笑った。 「近藤さんも覚えてるでしょ?神宮寺さん、それに平野さんとか。ああいうベテランに負けないように私らも頑張ってるわけなんですが、伊賀野さんは特に負けん気が強いですから、気合の入り方も凄いんですよ」 「なるほど」 「ああ見えてオラオラ系なんですな」 そう言ってまたはっはっはと笑う。 どうやら綺麗なビジュアルとは裏腹にかなり血の気が多いらしいというのはわかった。 そんなことを話していたら、伊賀野氏がこちらに歩いてきた。 お弟子さん達は儀式の後片付けに移ったようだ。 「お疲れ様。今日は意外なほどすんなり片付いたわね」 そう言って髪をかきあげる伊賀野氏を見て篠宮さんが声をあげた。 「和美さん!鼻!」 見ると伊賀野氏の鼻の頭が真っ赤になっている。 キョトンとする伊賀野氏に駆け寄る篠宮さん。 「ああ!髪が!」 篠宮さんが悲痛な声をあげる。 首をかしげた伊賀野氏を見ると、髪の毛の一部が数十センチほど短くなっていた。 肩下まで伸ばしていた髪の毛が頬くらいの長さで切れている。 どうやら炎が吹き上がった時に炙られてしまったらしい。 「そう言われたらなんか鼻が痛くなってきた」 伊賀野氏が鼻の頭をチョンチョンと触って顔を顰める。 「すぐに手当しないと!」 と篠宮さんが大慌てで伊賀野氏の手を引き本堂から出て行った。 女性の顔に目立つ火傷が残ったら大変だ。 それに一部とはいえ髪の被害は女性にとっては辛かろう。 「…………」 あらためて事態の深刻さが理解できた。 篠宮さん達のあっけらかんとしたテンションで完全に勘違いしていた。 これ、一歩間違えていたら大変なことになっていたんじゃないのか? 吹き上がった炎がもう少し大きかったら、伊賀野氏があとほんの少し護摩に近ければ、どうなっていた? 順調に終わったように見えたが、命の危険すらあったのは間違いない。 伊賀野氏も笠根氏も実にあっけらかんとしているが、相当なプレッシャーの中で戦っていたのだろう。 「…………」 あの時の合同除霊を思い出す。 死にたいとすら思うほどの恐怖の中、一歩を踏み出した篠宮さんの姿が蘇る。 ああいう命のやりとりを、先ほど伊賀野氏はやっていたのだ。 ブルっと全身が震えて、恐怖と共に興奮が胸に沸き起こる。 これは恐れか? いや……武者震いか。 「…………」 いい年してワクワクしている自分を感じる。 伊賀野氏に切り掛かっていたという武士の霊。 それを寄せ付けず浄霊に導いた伊賀野氏の度胸。 気合いで負けてしまった高梨氏と勝ち切った伊賀野氏の差は何か。 度胸なのか読経なのか。 何が決め手なのかわからないが、とにかく凄いものを見せてもらった。 「…………」 これは次の怪談ナイトには是非とも伊賀野氏をゲストでお招きしたい。 今日の興奮をリスナーさんにも伝えたい。 恐れではなく高揚感で滲んだ汗を拭って、隣に立つ笠根氏にも出演交渉をするべく俺は頭を働かせはじめた。 できれば篠宮さんも交えてゲスト3名によるスペシャル対談企画を組みたい。 篠宮さん達が戻って来るまで、俺は渋る笠根氏に出演を交渉し続けた。 続きます。
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