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中央アジア、某国――
静かな、冷え込む夜のことだ。
崖にぽつんと佇む天幕に、豊かな髭をたくわえた男が布を捲って入っていく。中に居た男はちらりと目を動かしただけで、何か言うでもなく荷造りを続けている。
「ここを出ると聞いた」
しゃがれたイブラヒムの問いに、男は頷いて返した。
「目的は察しているつもりだ。今更ではないのか」
「まあ、今更っちゃそうかもしれんな」
低い声が明るく答え、イブラヒムは髭面をしかめた。
「お前が流れて来たあの頃とは勝手が違う。入国も厳しいはずだ」
「俺だってテロリストの国から直行できるとは思わん」
「なに、渡航制限はじきに解ける」
眼光鋭い目を和らげてくっくっと笑い、
「長らく留守にしていた故郷に、あてはあるのか」
「つてはある。頼りないが、ないよりマシだ」
「それは、限りなくないに等しい」
「そうだな」
苦々しい言葉に男は小さく笑った。オイルランプの灯に照らされた顔は、悪戯っ子のような笑みを浮かべている。
「車を借りたい。空港まで馬はさすがにキツい」
「生きて戻ると約束してくれるなら、運転手もつけよう」
節くれだつ長い指で印を結び、神への祈りを口にするイブラヒムの姿を、男は優しい目で見つめていた。
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