思慕の墓

1/1
35人が本棚に入れています
本棚に追加
/17ページ

思慕の墓

 兄さんは俺達の本当の兄じゃなかった。戦争孤児でうろついていた見ず知らずの俺達を拾ってくれた恩人だ。  兄さんが働いていたカフェーは赤線の中にあった。そういうのの好きな男達が来る場所だった。兄さんが主に代わって店を仕切るようになって、俺と平吉も客を取るようになった。癖のある客は兄さんが引き受けてくれ、俺と平吉には良客を当てがってくれた。拾ってくれただけでも有難い時代だ、身体を売るくらいなんてことなかった。  元々身体の弱かった平吉は、何年かして肺を壊して死んだ。空襲で失ってもおかしくなかった命だ。平吉もここまで生きられて満足だったと思う。店裏の祠の傍に兄さんと俺とで小さな墓を建ててやった。それからも暫くは二人身を寄せながら春を売る仕事をしていた。  俺は、自分のことなんてどうでもよかった。ただ兄さんの辛さを少しでも担えるならとそればかりを思っていた。癖のある客だって取るつもりでいたのに、兄さんは俺にそういう客を回そうとはしなかった。  兄さんが風邪を引いた時、一度だけ代わりに兄さんの客を取ったことがあった。思っていたより酷い仕打ちを受けて俺は愕然とした。身体中に縄や歯形の跡、菊座は破れ、ショートの代金で散々痛めつけられた。  兄さんの辛さを、なんて烏滸がましかったと分かった。どうすれば兄さんに楽をさせてやれるだろう。俺を拾ってくれた恩返しを、どうやったらしてあげられるだろう。学も金も無い俺には途方もない望みだった。  ある時、身なりの良い中年の男がカフェーを訪れてきた。兄さんと何か押し問答をしていた。奥の茶の間で聞き耳を立てていた俺には、「条件」、「金」、「若い」と途切れ途切れに聞こえてきた。  なんだろう、儲け話か?兄さんは渋るように何度も首を横に振っていた。男は諦めて帰っていった。  きつい条件だったのかもしれない。だけど俺は、兄さんのためならどんな条件も飲めると思った。勝手口からそっと外に出て、男の後を追った。 「あ、あの」  走り寄って男に話し掛けた。 「さっきの店の者なんですけど」  男は訝し気に俺を見た。 「店の主にはもう来ないでくれと言われて帰るところなんだが」  やっぱり兄さんは何かを断ったようだ。 「あの、もし俺でできそうな話なら聞きますけど」  男は少し戸惑った風だったが、俺の顔と体つきを値踏みするように見てから、満足気に頷いた。 「お前みたいなのがちょうど欲しかった。お前の主は出し惜しみをしたのだな」  何をだろう。俺がうってつけならそう言ってくれればよかったのに。俺は男に畳みかけた。 「仕事なら俺がやります」  男が連れていきたい場所があると言うので出かける準備をするために店に戻ると、兄さんはちゃぶ台に突っ伏して居眠りをしていた。よほど疲れたんだろう、起こすのも忍びないと思い、俺はそっと商売道具を風呂敷に包んで店を出た。出張るなんて初めてだけど、いつもの通りにすればうまくいくだろうと考えていた。兄さんの客みたいに酷い奴らかもしれないけれど、そんなの俺が我慢すればいいだけの話だ。  兄さんには書置きをしておいた。仕事が終わったらすぐ戻る、と。  その約束は果たせなかった。俺はすぐには戻れなかったのだ。  俺が連れていかれた先は、とある資産家の屋敷だった。  俺は着いて早々、鉄格子で閉ざされた小部屋の中に放り込まれた。男は嬲って遊べる男娼を飼いたい資産家への繋ぎ役だった。兄さんは、その話を聞いて俺のために必死になって断ってくれていたのに、俺はそうとは知らずに男の口車に乗ってしまったのだ。  檻の中に閉じ込められた俺は、ぶくぶくと太った初老の資産家に毎日鞭で打たれ、水につけられ、苦しんだあげくに尻をめん棒で叩かれ、菊座にねじ込まれる毎日を送った。時には同じような趣味を持つ男達の前で見世物のように扱われた。  飯とも言えないような餌だったけれど一応三食は食えたし、金は弾むと繋ぎ役の男に言われていたのが唯一の拠り所だった。実際どれくらいの金になったんだろう。兄さんのところにきちんと仕送られているだろうか。身体の痛みよりも兄さんの気持ちを無碍にしてしまった申し訳無さでいっぱいだった。  半年ほど経ち、俺は犬のような生活から解放された。  持って来た風呂敷包みと共に屋敷から放り出された俺の足は紫に腫れ上がり歩くのもままならなかったが、兄さんの元へ戻れる喜びと早く謝らなければという気持ちのみで、ただ必死に家路を急いだ。  因果な商売だが、平吉と俺と兄さんの大事な住処だ。俺はやっとの思いでカフェーに戻ってきた。  店は……無くなっていた。  あと何年かしたら赤線が廃止されるとかされないとか風の噂で聞いていた。兄さんはこの商売に見切りをつけて早々に店を畳んだのだろうか。俺の稼いだ金が役に立ったのだろうか。俺はどうなってもいいけれど、兄さんが幸せになっているのなら。それだけを知りたかった。  居抜きで入っていたのは、赤提灯の一杯飲み屋だった。 「あの、このお店の前にあったカフェーを知りませんか」  飲み屋の親父は、俺達が休憩に使っていた茶の間で新聞を読みながら、面倒くさそうに答えた。 「知らねぇな、引き継ぎの日に男が一人挨拶にきたくれぇだ」 「その男の人は、どこに行ったか知りませんか?」 「さあ。なんでも生き別れた弟を探しに行くとかなんとか」  俺だ。俺を探すために、兄さんは店を辞めたんだ。  なんてことをしてしまったんだろう。よかれと思ったことが、兄さんを余計に苦しめてしまった。  来た道を慌てて引き返す。資産家の屋敷で聞けば、あの繋ぎ役の男のことも分かるんじゃないだろうか。もしかしたらまた酷い目に合うかもしれないけど、兄さんの行方がわかるならなんだっていい。  屋敷の女中は取り付くしまもなく、男と連絡の取りようがなかった。兄さんと離ればなれになってしまった。  再び長い道のりを歩き、カフェのあった場所へと戻ってきた。親父に無理を言って雇ってもらった俺は、そこで兄さんが帰ってくるのを待った。親父が隠居して、俺が飲み屋を継いで、時は移り、俺の髪の毛に白いものが混じり始めた頃。  飲み屋に一人の三味線引きが流れてきた。少しの間弾かせてくれと。俺は好きなようにやんな、と声を掛けた。そいつはそう長くは居着かなかったけれど、少しでも居場所になっていたのなら本望だ。俺が兄さんにしてやれなかったことを少しでもそいつにしてやりたかったのかもしれない。  平吉の墓の隣に兄さんの墓も立てた。俺が親父と呼ばれる歳になったんだ。兄さんももう生きては居ないかもしれない。  喧嘩っ早いが活気のある常連客に囲まれて、俺はここに骨を埋めようと思っている。  ────────────  嗚呼、思い出話が過ぎたな。店を開けるか。  よっこいせ、と茶の間を立ち上がり、いつものように表に縄のれんを出す。冬にぎっくり腰をやっちまったから気を付けて支度をしないといけない。少し気は早いが俺の分の墓も用意しておくか。 「三郎太、久しぶりだな」  後ろから声を掛けられて俺はゆっくりと振り向いた。 「……正太郎兄さん」   終
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!