一章 下

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 どんなに心が重たく沈んでいても陽は昇って来るものだ。  窓から差す光に意識を覚醒させられて寝ぼけ眼のまま身支度を整える。  朝食も部屋で取ったが、起床時の「おはよう」の挨拶交わしたきりハリスとの会話はなかった。  静かな部屋の中で黙々と荷物をまとめる。と言っても大した量はないので着替えを仕舞っただけで済んでしまった。ハリスはどうだろうかと振り返ればちょうど赤い瞳とかち合う。 「あ……」  交わった瞳のままピタリとお互いに動きを止めた。頭が真っ白になってしまったリアとは反対に、すぐに視線を逸らしたハリスは一度口を強く引き結んだ後にぽつりと零す。 「もし、よければだけど……帰り道に神殿に寄ってから帰らないか?」 「神殿……?」  どこか聞いたことのある音だが耳に馴染みがあるだけでそれ以上のことはわからない。首を傾げたリアに、ハリスが丁寧に説明を加える。 「リオリスには、神が与えたとされている「火」「水」「木々などの緑」の三つを象徴とした神殿があって、そのうちの一つ、緑の神殿はこのネバスにあるんだ」  そう言ってハリスは少し戸惑いながらもリアと視線を交わらせてユルリと口の端を上げて見せた。  いつもの笑みより少し不恰好だ。何だか知らなかった表情を見れて、リアの気も緩んでいく。 「君は教会に住んでいたと言ったろ?俺たちの住んでいたカルタニアにも神殿があって週に一度はそこに祈りを捧げに行っていたんだ。神殿自体の造りはどこも変わらないし、もしかしたら何か記憶の手掛かりになるかもと思ってね……」  どうだろう、と赤い瞳がリアに問う。昨日の弱々しい様子が頭に残っているせいか、断られることを恐れているように見えた。きっとそんなはずないのに。 「はい……行きたいな……何か思い出せるかもしれないし……」  そうしたら、ハリスとのことも何かわかるかもしれない。  思い出したい。一度そう思ってしまうとまっさらな自分がひどく恨めしい。  なぜ何も覚えていないのか。どうしてハリスのことがこんなに気になるのか。本当のハリスはどんな人なのか。 ―――知りたい。以前のリアが見ていたハリスを。  頷いたリアを見て、「そうか」と肩の力を抜くハリス。それが何だか可笑しくて、もしかしたら昨日のハリスは夢だったんじゃないかって、そう思ってしまうほどに穏やかな顔だった。  宿を出てネバスの街に別れを告げる。初めはソニーの家に向かうものと変わらないが、途中で横道にそれて森の中を進むらしい。  神殿はネバスの領地にあるものの、正確にはリリシアとネバスの境の森の中にあるそうで、生い茂る森の中に、細い一本の道が続いていた。そこを二人で並んで歩いていくと緑の葉の隙間から真っ白な大きな建物が姿を現した。  周囲には人影はおらずシンと静まり返った森だけが広がっている。時折吹く風に合わせて葉がカサカサと音を立て、それが帰ってこの厳かな空気を更に神聖なものにしていた。  ズラリと廊下沿いに並ぶ太い柱も床も何もかもが真っ白な石を形作って出来ている。触れることさえ躊躇するほどに汚れも何もない。  カツリと足を踏み出す度に澄んだ音が響く。  あまりにも静かでいけないことをしている気分になって来た。 (本当に入って大丈夫なのかな……)  何だかソワソワと体が落ち着かない。厳粛な空気に気後れしているのかと前を行くハリスにピッタリとくっついて歩みを進める。  長く広い廊下に人影はない。それが何だか不気味さを増しているような気がした。 「ハリス……神殿てこんなに静かなものなんですか?」 「祈りの日は近隣の人たちでごった返すけれどそれ以外は静かなものだよ?出入りを禁止されているわけじゃなし、駐在している教団の者は数人必ずいるはずだけれど」  キョロリと周囲を見渡してみるが人の姿はない。そうしているうちに前を行くハリスが足を止め、自然とリアもそれに倣う。 「奥の広間についたよ。ここで街の人たちは祈りを捧げるんだ」  リアに道を譲るようにハリスが横に体をずらす。確かに、長い廊下は終わりを迎え、丸く形を作った祈りの間がある。  週に一度は人々が集まるからか、想像していたよりもずっと広い。  一歩ずつ、ゆっくりと足を踏み入れる。恐々とした気持ちを抑えるように深く息を吸った。  廊下とは使われている石が違うのか、真っ白で艶のある床はリアの姿を反射するほどに輝きを持っている。白い床に黒い線が揺れているのが何だか背徳的な気分をもたらす。  広間の中央まで来た頃だろうか足元ばかり注視していた視線を、そこで初めて上げた。 「……はぁ……」  足音の余韻が耳に残る。そして、それを掻き消すように自身の口から感嘆の息が漏れた。  思わず真上を見上げて声を出してしまうほどに天井ははるか遠くにあり、正面の壁には視界に収まり切らないほどの大きな絵が描かれていた。 (絵本で同じ様なものを見たことある……)  あれは子供向けに可愛らしい絵柄になっていたが、この壁画は石の壁に直接掘り起こした太い主線で一筆書きのようにシンプルなもので描かれている。  神が男に王冠を被せているシーンが頭に過る。目の前の絵もそれに酷似した状況を表していた。  跪く黒髪の男とその前で羽ばたき宙に浮く神と名されている人物。その二人は揃って地面を見つめており、そこからは小さな芽が出ていた。 (木々などの自然を象徴とした緑の神殿だから、神様がそれを与えた場面を絵にしてるのか……)  リアが正しく絵の意味を理解した時、身体に衝撃が走った。 ―――え?  ふっと意識が一瞬だけ暗転して気づいた時には冷たい床に体を預けていた。背後でリアの名を叫ぶハリスの声と慌ただしい足音が迫ってくる。  それに応えたいのにうまく声が出なかった。  ぐるぐると体の奥で何かが疼く。不快感と心地の良さ、相反する思いが頭を占めて最後にハリスの焦燥した顔が視界を掠めたと思えばリアは意識を手放した。  気づいたらそこにいた。  白く霧の立ち込めたそこはリアの記憶にはない場所で、どうしてこんな所にいるのかと焦って周囲を確認する。 「ハリス……!」  先ほどまで共にいたハリスの名を呼んだところで返答はない。知らぬ場所にたった一人で置かれた恐怖に体が震え出した頃、リアの耳に届いたのは穏やかな声だった。 「……誰?」  白一色だった景色はいつの間にか若々しい緑を携えた草原に変わる。霧で視界の悪い中、眼を凝らせばそこにはいつから居たのか二人の人影。  草原に横たわる黒い髪の男とその横で腰を下ろす真っ白で長い髪を持つ青年がいた。しかし、背格好ははっきりと見ることが出来るのに、その表情には白い靄が重なり顔を認識できない。それでも、二人がひどく楽しそうに会話をしているのはわかった。 「―――、お前も横になればいい」  黒い髪の男が、白い青年の細い手首を掴んでそう言った。多分、冒頭部分は名前を呼んだのだと思うけれど、そこは音が重なりあってよく聞き取れなかった。 「いやだよ、虫がいるかもしれないじゃないか……」  青年は白い髪を揺らしながら首を振る。それに男は「そこに座っていたら一緒だろうに」と笑った後、「足の指に虫がいるぞ」と指で示す。  白い青年は驚愕の声を上げて飛び跳ねたと思えばそのままの勢いで男に飛びついた。仰向けの男はそれがわかっていたのか、広げて待機していた両腕でしっかりと青年を受け止めてそのまま自分の上に横たわらせる。 「ごめんて、―――。嘘だ」 「ひどい、私が虫を嫌いだって知ってるくせに」  恨めしく声を上げて男の胸元を青年が拳を作った両手で叩く。しかし、その手にはそれほど力が入っているわけではない。怒っていることをわからせるためのポーズなのだろう。  だからか、黒髪の男は大きな笑い声を草原に響かせるだけだ。 (なんだか、楽しそう……)  二人は随分と仲がいいようだ。そのうち男に釣られるように青年も柔らかな笑みを零す。  風が吹いて漆黒の髪と艶やかな白髪が交じって揺らいでいく。段々と視界がぼやけ始め、二人の姿は霧の向こうに消えていく。 (待って、聞きたいことが……!)  此処は一体どこなのか。元の場所に戻るためにはどうしたらいい!  しかし、伸ばした腕は二人には届かない。  スウッと意識が遠のいて行き、眠る様に穏やかな気分で浮遊感に身を預けた。 「……ア、リア、リアッ!」 「……んぅ、ハリス……?」  切迫した声に、自身の喉が唸る。瞼を押し上げればハリスの顔が視界に映った。険しく皺を寄せていた眉がリアの声に反応して下がる。  瞳を揺らして辺りを見れば、倒れているのはあの神殿の広間だった。背中をハリスに支えられて抱き起されているが、ダラリと垂れた指先は床に触れて冷えている。 「ごめんなさい、俺……急に意識が遠くなって……」 「一体何があったんだ?」  ジッと探るような赤い双眸が落とされる。嘘は許さないと言われている気分になった。それをぼんやり見上げながらハリスの手に自分の物を重ね、その熱を感じながら眼を閉じる。 「なんだか、不思議な夢を見ていて……白髪の青年と黒い髪の男の人が何かを話していて……」 「白髪と黒髪……?」  リアの言葉にハリスが考え込む。そんなハリスを尻目にリアは少しずつ感覚の戻ってきた身体に力を込めて起き上がる。 「リア、大丈夫か?」 「平気。少し体が重いだけで特に何ともないから……」  しかし、どうして急に倒れたりしたのだろう。特に体調を崩していたわけではない。それに、意識を失っている時に見たあの不思議な夢は……? 「リア、もしかして君が見たのは無くした自分の記憶じゃないのか?」 「えっ……?」 「君は以前は真っ白な髪をしていたと言ったろ?だから白髪の青年は君自身じゃないのか?」  ハリスが真っ直ぐ見上げて言った。しかし、リアにはピンと来ていない。  じゃあ、黒髪の男は以前の知り合い?いや、知り合いと言うには随分と距離の近い関係だったが。 「けれど、黒い髪の男には悪いが心当たりはないな……黒髪なんて同じ街に住んでいれば存在ぐらいは知っているはずだけれど……」 「結構親しげな様子だったんですけど……二人で草原で寝転がっていて……ハリス?」  黒い髪が珍しいことはリアでも知っている。だからなるべく情報が多い方がいいかと思って見たことをそのまま述べたのだが、難しい顔をして黙ってしまった。  僅かに寄せられた眉は、不快さを示している様に見えてやっぱり本当は黒い髪が嫌いなんじゃないかと不安を煽られる。  しかし、どうしたのかと聞いたところでハリスはハッキリとは答えない。 「いや、何でもないよ……リア、今日帰るのは止めてとりあえず宿に行こう。倒れた体で野宿は辛いだろう」  手を添えられて立ち上がる。そのままハリスはリアの手を引いて広間から出た。 (どうしてこっちを見てくれないんだろ……迷惑かけたから怒ってる?)  手を引く力はそれほど強くはない。昨日のような荒々しさは感じないので怒っているわけではないと思いたい。  神殿を出て、また同じ宿に戻って来てしまった。受付の者は今朝出て行った客が再び戻って来て眼を瞬かせていたけれど、商売だからだろう。特に何も言うことはなく部屋を用意した。  昨夜とは違う部屋だが造り自体は変わらない。  荷物を置いて一息つくと、ハリスは倒れた時の状況を詳しく問いかけた。  だが、リアも自分の身に何が起きたのか把握しきれていない。 「本当にわからないんです……体の中で何かが回っているというか変な感じがして……気づいた時には倒れて不思議な夢を見ていました……」 「体内で……何かが……」  口元に手を当てて思案するハリスは、「うん、やはり……」と呟くと真っ直ぐにリアを見つめて打ち明ける。 「リア、君の感じた違和感は魔力なんじゃないかな?」 「まりょく……?」  疾患を持っている自分が魔力を感じ取ることが出来たというのか?疑心暗鬼なリアを察してかハリスが更に根拠を示す。 「君は気づいていなかったと思うけれど、倒れていた時……君の髪は一時的に本来の色を取り戻していたんだ」 「え……?」  恐る恐る自身の髪を見下ろす。しかし、そこには真っ黒な髪が流れているだけでいつもと変わりはない。本当にこの髪が戻ったというのか。 (元の白い髪に戻った。魔力が表に出てきた……?)  その場面を見ていないリアには信じがたいが、ハリスが言うのなら間違いはないのだろう。 「君の見た夢や戻った髪色といい、神殿の何かが君の中の魔力に反応して記憶を夢見たのか、もしくは記憶が揺さぶられることによって魔力の変化を起こしたんじゃないかと考えている」  どうだろうと赤い瞳がこちらを窺うが、ハリスは既にその二つのどちらかではいかと思っている。リアも、そうなんじゃないかと期待が胸に沸き立つ。  気づかないうちに腰掛けた膝の上で両手を握りしめていた。強く力を込めているからか少し震えている気もするが今のリアにはそんなことに気を割く余裕はない。  もし、ハリスの言っていることが正しかったとしたら……。 「記憶が戻るかも……」 「そう、神殿には君の記憶を取り戻すための何かがある」  断言したハリスに緊張からかゴクリと喉が鳴った。先ほどからひどく渇きを覚えて仕方がない。  本当に記憶が戻るのか。もし、その可能性があるとしたら……。  さっきの夢で見ることが叶わなかったハリスのことも思い出せるかも……!  ドクドクと心臓が脈を打つ。やけにその音が大きく耳の奥で木霊する。 「これは提案なんだが、各地の神殿を回ってみるというのはどうかな?もちろん、君が嫌でなければだが」 「行きます!」  頭に浮かんだ言葉が、ハリスの声で紡がれる。リアは反射的に立ち上がって叫んでいた。 (記憶が戻るかもしれない手がかり……!可能性があるのなら試したいっ!)  そうするためには情報を集めなければならない。今のリアには神殿がどこにあるのかも、この国を回るための術も持たない。 「は、ハリス、申し訳ないですが残りの神殿の場所を教えて貰えますか?あと出来ればお金を稼ぐにはどうしたらいいかも、ああ、後は何が必要でしょう……」  鞄からメモを取り出してハリスに差し出す。ああ、記憶がないと何が自分に欠けているのかもわからない。歯がゆい思いを隠しながらハリスに早口で捲し立てる。  そのリアの手を掴んで「ちょっと待って」とハリスは心底意味が分からないという顔でリアを見上げた。  そんなハリスに首を傾げながらリアは、(目を丸くすると可愛らしい印象になるな……)なんて呑気に思っていた。 「リア、君は一人で行くつもりなのか?」 「はい?そうですけど……」  何を当然なことを聞くのだろう。頷くリアにハリスは長いため息を吐く。 「リア、俺も一緒にいくよ。いや、行かせてくれないか?」 「でも、それではハリスの迷惑に」 「今ここで君と別れた方が動向が気になって仕方がないよ。俺のためだと思って一緒に行かせてくれないか?」  掴んでいた手首から肌を滑らせ、リアの両手を掬うようにもってハリスが紡ぐ。躊躇するリアの様子に、ハリスはもう一度柔らかな音で名前を呼ぶ。あまりにも必死な声音に頷いてしまった。 「どうする?ここからすぐに向かうかい?」  その言葉に反射的に「もちろん」と返しそうになって「あっ」と間抜けに口を開ける。 (ソニーさんのへの報告どうしよう……)  リアの体を心配してくれたソニーのことが浮かぶ。お土産だって約束したし、何より長く留守にするかもしれないのだ。一言でも直接言うべきだろう。  手首のお守りに触れると石のひんやりとした冷たさが逸る心を慰めてくれる。  ハリスに、ソニーに伝えてからでないと……と言えば、ハリスはいい案があると手を打ってリアに明るい声を向けた。 「じゃあ、手紙を出すというのはどうかな?あの人のことだしあまり細かいことは気にしないと思うけれど」  手紙……。そっか手紙なら自分の言葉でソニーに伝えることが出来る。 (それならいいかもしれない……)  顔を上げれば、そのリアの表情で察したのかハリスは笑って肩を竦めると「決まりだね」と軽やかに言った。  二人の門出を照らすように外では暖かな光が降り注いでいる。  初めて見えた自身の記憶の手掛かりに、リアはただ明るい未来だけを見据えていた。  こうして、リアとハリスの短くも濃い旅が始まった。  また、この時のリアはまさか自身の記憶を取り戻すだけのつもりが、この国に根付いた秘密に関わっていくことになるとは夢にも思っていなかったのである。
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