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「まさか、あんたが国立に受かるとは思わなかったよ。いや、マジで」  和希ちゃんの遠慮のない感想に、周囲が爆笑した。  駅前の通り沿いにあるイタリアン。フォーラムの打ち上げを行ったのと同じ店に、今日は、高校を卒業して学習会を巣立っていく生徒たちと、ボランティアの面々が集まっている。ささやかな歓送会だ。  お店のオーナーの厚意で、格安で使わせてもらっている。未成年が主役なので、もちろんアルコールはなしだ。 「ひどいなあ」  和希ちゃんの言葉に男の子が苦笑している。でも、心から嬉しそうだ。  国立大一本の受験だった。学費は全額アルバイトと奨学金で賄わなければならないから、私立という選択は難しかった。これで「先生になりたい」というこの子の夢が、単なる夢ではなく、ちゃんと現実のものとして見えてくる。 「まあ、よかったじゃん。おめでと」  和希ちゃんは、いつの間にか、笑いながら泣いていた。丸岡先生が、その肩を軽くたたいた。この一年間、和希ちゃんがどれだけ一生懸命にかかわってきたか、みんなが知っている。 「僕、四月から、教える側で参加する」  生徒が言う。和希ちゃんが「いい心がけじゃん」とふざけた口調に感情を隠して言った。ぶっきらぼうなようでいて、実は和希ちゃんは結構繊細だ。  目の前で交わされている会話を聞いていたら、後ろから「理香ちゃん」と声をかけられた。振り向くと、研さんが、いつになく真面目な顔で立っていた。 「ちょっと話があるんだけど。いい?」 「何ですか?」  理香は、首をかしげてみせた。  ミーティングで顔を合わせることはあっても、研さんと二人で話すのは久しぶりだった。正直に言えば、研さんと二人きりになるのを避けていた部分もなかったとは言えない。 「研さん、髪、短くなりましたね」  理香は明るく言った。アフロの体裁を残しつつ、あのふわふわが短くなってすっきりしている。スミレ先生の影響なのかもしれない。 「オレのことはいいからさ。真面目な話」  研さんは、テーブルの上に載っている箱の中からチョコレートを二つつまみ、一つを理香に手渡した。今日持ってきてくれた差し入れだ。 「ありがとうございます」  受け取ってお礼を言った理香に、研さんは怒ったような困ったような顔をした。 「──外、いいか?」  言われて、理香は大人しく「はい」とうなずいた。何の話なのか予想はついている。逃げてしまいたいけれど、逃げるわけにもいかない。会話が盛り上がるテーブルの間を縫うようにして進み、研さんと二人、ドアの外に出た。  研さんのあとについて狭い階段を降りる。店の前の通りは、車がようやく通り抜けられるかどうかの幅しかない。その端っこに立ち、研さんは話を切り出した。 「長谷がさあ」  うしろめたい名前を口に出されて、理香はびくっとした。研さんはその反応を無表情に見ながら、チョコレートの包みを開け、中身をぽいっと口に放り込んだ。 「好きなんだよね、ここのチョコレート」 「そうなんですか」 「うん。聞いてない?」  口調はいつもと変わらないけれど、目が笑っていない。こんな研さんは初めてで、何だか怖い。  あんなことをしてしまったのだから軽蔑されるのは当たり前だ。でも、夜中に駅前で会ってしまった時は、こんな風にマイナスの感情をむき出しにされることはなかった。だから、てっきり見逃してくれたのだろうと甘いことを考えていた。  理香は目を伏せた。研さんのスニーカーと理香のショートブーツが、でこぼこのアスファルトの上で、一メートルほどの距離を開けて向かい合っている。  理香のことはどう思われても仕方がない。でも、長谷さんのことは悪く思わないでほしい。長谷さんにとって、研さんは大事な友達なのだろうと思う。こんなことで友達を失ってほしくない。  理香は、これ以上追及しないでくれることを祈りながら、あえて嘘をついた。 「そんなことを話す間柄じゃないですから」 「じゃあ、どんな間柄だって?」研さんの声が鋭くなった。「親密な間柄だったんじゃないのか?」 「違います」 「二人で晩メシを食ったり?」 「たまたま会っただけです」  これは、嘘じゃない。後ろめたいことなんてなかった。あの時までは。 「手をつないで歩くのは?」  予想もしなかった言葉に、研さんを凝視した。答えられない理香に、研さんがたたみかけた。 「明け方に部屋から帰るのは?」  理香は目をそらした。 「そんなこと──」  言いかけた声が震える。 「まさか『そんなことしてない』なんて言わないよな。会ったもんな」  分からない。この人は本当に長谷さんの友達なんだろうか。そんなことを暴いても、彼の汚点にしかならないというのに。 「あいつが眠ってる間にいなくなってしまうのは?」 ──どうして知ってるの?  理香は、おろおろと視線をさまよわせた。 ──長谷さんが話したんだろうか。でも、自分の浮気の話を、わざわざ? 「してないなんて言うなよ」にこりともせずに研さんは続けた。「あいつからのメールを無視するのは? 電話に出ないのは?」  話の展開に違和感を覚えた。何を責められているのか、だんだん分からなくなってくる。とまどう理香の前で、研さんの顔がゆがんだ。 「ちゃんと考えてやれって言ったよな、オレ」研さんは今にも泣き出しそうに見えた。「あいつが重いのは分かってるし、理香ちゃんに背負ってくれなんて言えない。でもな、ダメだっていうんなら、はっきり好きじゃないとでも何とでも言って、振ってやれよ。ただでさえ、ようやく生きてるようなやつなのに、痛々しすぎて見てられん」 ──振る? わたしが、長谷さんを?  研さんが何を言いたいのか、全然分からない。 「意味が分かりません」ようやく絞り出した声は震えていた。「そんな問題じゃないでしょう? だって──」  研さんが、「だって?」と先を促した。ふいに、向かいの店の看板がにじんだ。 「奥さんもお子さんもいらっしゃるんだから──仕方がないじゃないですか」  口にした途端、ずっとこらえ続けていた涙があふれた。何週間も心の中に閉じ込めてきた涙が、一度堰を切ったら止まらなくなる。  理香はしゃくり上げ、鼻をすすった。 「わたしがどんなに──どんなに好きでも、どうしようもないじゃないですか──」  ずっと隠しておくつもりだったのに、とうとう口からこぼれてしまった。  研さんが息をのむ気配がした。理香はポケットをさぐってハンカチを取り出し、ぐしゃぐしゃの顔を押さえた。みっともないことは分かっているのに、涙をとめることができない。研さんの姿がかすんで、見えない。どんな顔をしているのか、怖い。表情を見なくて済むのはよかったかもしれない。 「理香ちゃん──」  研さんが動く気配がして、大きな手が頭に触れた。 「触らないで」理香は、その手を弱々しく払いのけた。「研さんが汚れちゃうから。わたしは、汚いです。長谷さんは悪くないんです。ちゃんと知っていたのに、人のものなのに、わたしが横から盗もうとしたんです。ごめんなさい。ごめんなさい──」  長谷さん、ごめんなさい。黙っておかないといけなかったのに。迷惑をかけるかもしれません。ごめんなさい。  黙ってしまった研さんを前に、心の中で何度も何度も謝罪する。でも、口から出てしまった言葉は取り戻すことができない。 「──汚くないよ」  沈黙のあとで、研さんの声が落ちてきた。 「理香ちゃんは、汚くなんてない。謝ることなんて、何もない。ごめん、理香ちゃんを責めることじゃなかった」  研さんが理香の頭に手を回し、肩にもたせかけるようにして、何度もぽんぽんとたたいてくれる。男の人だという感じは全然しない。お兄ちゃんみたいだ、といつかと同じことを思う。  研さんが、くしゃくしゃになってしまった理香のハンカチを手から取り上げた。小さい子にするみたいに顔をぬぐってくれる。 「あのさ、理香ちゃんは、勘違いしてるよ。長谷のこと」 「──何をですか」  自分でもびっくりするくらい、声がかすれていた。泣きすぎだ。 「あいつ、一人だから。今は」 「──?」  意味が分からない。この一か月で別れたということだろうか。まさか、あの日のことを奥さんに知られてしまった?  自分の母親の顔が浮かんだ。同じことをしてしまったんだろうか。長谷さんの家庭を壊した──? 「今は──じゃねえな、もう何年も一人」 「嘘いわないで」変な同情はいらない。研さんが何をしたいのか分からない。嘘をついてまで、なぐさめてほしくない。「ちゃんと知ってます。お子さん、中一だって──」  研さんは小さくうめいた。 「あいつが言ったのか?」 「そう言ってたって聞きました」  また涙がこぼれた。 「あいつ、まだそんなことを──」  研さんの眉間にしわが寄っていた。表情が強張っている。研さんは、ため息をついた。 「まあね、十三歳になってたはずだよ」  胸がずきんとした。長谷さんは、どう見ても三十代半ばにしか見えない。ということは、ずいぶん若い時に生まれたんだ、と思う。 「奥さんの名前も教えるよ」 「聞きたくありません」 「いいから、聞いて」耳をふさごうとした理香の手を、研さんがつかまえた。「名前はね、長谷花穂子。字はね、花に稲穂の穂」 「やめて──」 「大人しくて、優しくて、笑うとかわいかった。子どもは、あかねって言ってみんなに可愛がられてて──」 「やめて!」  理香は、研さんの言葉に被せるように大きな声を出した。聞きたくない。手を振りほどこうとするけれど、研さんは離してくれない。 「いいから、聞いて。理香ちゃんには知っててほしい」  長谷さんの奥さんや子どもさんのことを知ったからって、どうなるのか。研さんが何を言いたいのか分からない。そして、こんな話は聞きたくない。  このまま消えるから、だから許して。あれは過ちだった。長谷さんとは二度と顔を合わせない。だから──。 「そんな、他人のことを勝手に、いくら研さんでも──」  苦し紛れに言い、「許されません」と続けようとしたら、研さんに遮られた。 「他人じゃないよ。妹だから、オレの。長谷はね、大学の同期だけど義理の弟でもある。家族なんだ」一息に口にし、それから小さな声で言い直した。「──家族だったんだ」  研さんは、そこでいったん言葉を切った。ちゃんと理解できていない理香に向かって、感情を抑えた声で続ける。 「妹は、もういない。あかねも。二人とも、もういないんだ」  研さんは、呆然として動きを止めた理香の手を離した。理香の手が、ゆっくりと下に落ちた。 「もう何年も経ってる」一つひとつ、かみしめるように言葉を口にする。「あかねは、四月から小学生になるはずだった。二人目も生まれる予定で、引っ越しもして、なんか賑やかな春で──。妹も長谷もすごく楽しみにしてた。長谷だけじゃない、オレも、うちの親父もお袋も、みんな。あかねのランドセルはオレが買ってやって──」  研さんの声が震えた。 「三月に入ってから、妹は、あかねと一緒に登校の練習をしてた。一年生になったら、ちゃんと自分で歩いて行けるようにって、毎日、毎日──」  “あかね、入学式”  カレンダーに書かれた文字が頭に浮かんだ。  研さんの声が、その日に起きたことを淡々と語る。その日、花穂子さんとあかねちゃんは、いつもと同じように、手をつないで小学校への道を歩いて行った。 ──もうすぐ一年生だね。 ──入学式、楽しみだね。 ──友だち、いっぱいできるといいね──。  歩きながら、そんな会話を交わしたかもしれない。  交差点で信号を待っている時に、それは起きた。歩道に突っ込んできた宅配のトラック。過労による居眠り運転だった。身重の花穂子さんは、あかねちゃんを自分の身体でかばおうと抱きしめるだけで精一杯だった。  研さんが病院に到着した時には、何もかも全部、終わってしまっていた。長谷さんは、つい今しがたまで生きて笑っていたはずの妻と小さな娘のそばに、ただぼんやりと立ち尽くしていた。  研さんの声を遠くに聞きながら、理香の心は、あの夜に見た長谷さんの部屋に戻っていった。  食器棚に並べられた三人分の食器。うさぎの絵がついた、小さな桃色のお茶碗。  たぶん、何年もずっと壁にかけられたままだったのだろうカレンダー。入学式に、誕生日、出産予定日。当たり前に続いていくはずだった毎日──。  一人残されて、長谷さんは、毎日どんな気持ちで眺めていたんだろう。 「わたし──」  さっきまでとは違う涙がこぼれた。その先の言葉が出てこない。研さんは、黙ってしまった理香を見つめていたかと思うと、視線を空に向けた。白いものが、ゆっくりと落ちてくる。雪だ──。 「ああ」研さんは小さく息をついた。「道理で寒いと思った。もう、三月も終わるっていうのになあ」  研さんはつぶやき、優しい目で理香を見た。 「ごめんな。手、痛くなかったか?」理香がうなずくと、研さんは安心したように続けた。 「本当はオレが言うことじゃないって分かってる。でも、理香ちゃんの気持ちがあいつにあるんなら、どうか、あいつのためにそばに居てやって」  気がついたら、駅への道を一人で歩いていた。  ちゃんとコートを着て、バッグを提げている。歓送会の会場をどうやって出てきたのか、よく覚えていない。少し考えて、ああそうだ、研さんが送り出してくれたんだ、と思い出した。 『わたし、行かないと』  うわの空でつぶやいた理香に、研さんは「待ってろ」と優しく言い、店に戻ってバッグとコートを持ってきてくれた。 『挨拶は終わったし、もう出番はないだろ? どうせ幹事は和希なんだから、あとは気にすんな。用ができて帰ったって言っとくから』 ──会いに行かなくちゃ。  それしか考えられなかった。 ──会って話をしなくちゃ。すぐに──。  駅に着いて、ちょうどホームに滑り込んできた電車に乗った。  電車の窓から外を見ると、流れていく雪の向こうに、うっすらと月がかすんで見えた。  理香はバッグからスマホを取り出した。画面に触れ、受信ボックスを開く。そこには、何通ものメールが未読のまま残っていた。ずっと見ないふりをしていた、長谷さんからの連絡。大切な人の名前にそっと触れて、最後に受け取ったメールを開いた。 From:長谷貴文 To: 山村理香 20XX/03/09 21:57 こんばんは。寒い日が続いていますが、お元気ですか。 何度も連絡をして申し訳ありません。これを最後にしますから、どうか安心してください。 あなたのことが好きでした。ずっと一緒にいたいと思う人には、もう会えないだろうと思っていたので、あなたに会えたことが嬉しかった。 でも、僕の気持ちは迷惑にしかならないと、ちゃんと分かっています。強引に押し付けて、申し訳ありませんでした。これ以上、煩わせることはありませんから、心配しないでください。 最後に、一つだけ伝えさせてください。 なぜか自分に自信がなくて、いつも自分を責めているあなたのことが心配でした。あなたは、そのままで大丈夫ですから、自分を信じて真っ直ぐに生きてください。 幸せになってください。 長谷  明かりが消えた学習塾の前。コーヒーショップのガラスの向こう、薄暗い歩道に、ぽつんと立っていた長谷さんの姿を思い出す。  あの時に読めばよかった。ちゃんと読んで、話をすればよかった。息苦しいほどの後悔が押し寄せてくる。  理香は、一つ前のメールに指をすべらせた。そっと触れて、開封する。  三月に入ってすぐの日付。時刻は夕方。このメールを受け取った時、スミレ先生と一緒にいて、学習会に向かう準備をしていたことを覚えている。  夜の駐車場にとまっていた、長谷さんの車。気づかなかったふりをして逃げ出した、あの日──。 From:長谷貴文 To: 山村理香 20XX/03/01 17:21 こんばんは。何度も連絡をして、申し訳ありません。 今日、話す時間をもらえませんか。 どうしてこんなことになったのか、ずっと考え続けています。僕の行動があなたを傷つけてしまったのなら、せめて謝罪する機会をください。 学習会が終わる頃に、区民センターの駐車場で待っています。 あなたが嫌がるようなことは絶対にしません。僕の車に乗るのが嫌なら、指定の場所にうかがいます。都合が悪ければ、都合がいい時を教えてください。 一方的なお願いで申し訳ありません。 長谷  理香は、一通ずつメールをさかのぼっていった。長谷さんが伝えようとしてくれていたこと。何日も、何週間も前につづられた言葉に、胸が締めつけられる。  どうして、この人を信じられなかったんだろう。  どうして、無視することなんてできたんだろう。  車内アナウンスが、長谷さんが住む街の名前を告げた。自動ドアが開いた瞬間、理香は、扉の間をすり抜けるようにして電車を降りた。そのまま早足で階段をくだっていく。  改札を抜けて、その先のコンコースを歩き、北口から外に出た。  長谷さんの自宅に向かって歩き出そうとした時、正面から吹き付けた冷たい風に、理香は思わず立ち止まった。  夜とはいえ、帰宅途上の人でにぎやかな街。ロータリーに入ってくるバスと、客待ちのタクシー。駅前の、ごく普通の風景が目に飛び込んでくる。  いつかの夜と同じように、雪が舞っていた。  でも、今はもう一月じゃない。目の前に落ちてくるのは、あの夜、長谷さんと一緒に眺めた雪じゃない。これは名残の雪だ。季節はとうに過ぎているのに、忘れた頃になって、過ぎた季節を惜しむかのように、はぐれて降る雪──。 ──本当に、会いに行ってもいいのかな。  最後のメールからですら、もう十日は経っている。 ──今さらなんじゃないかな。  何人もの人が、駅に向かって急ぎ足で歩いてくる。サラリーマン風の男性と肩がぶつかり、理香は「すみません」と頭を下げた。こんな場所で立ち止まっていたせいだ。バッグの肩ひもを握りしめ、理香はゆっくりと歩き出した。 ──いきなり押しかけて、迷惑じゃないかな。  考え始めると、とまらなくなる。  一刻も早く会いに行かなければと思った。そばにいたい、一人にしちゃいけない。そう思ったから、今、理香はここにいる。  長谷さんが失くしてしまったもの。それは、何にも代えられない大切なものだったはずだ。そのことを思うと、胸がつぶれそうになる。けれど一方で、長谷さんが今一人だということを嬉しいと感じてしまう自分もまた、心のどこかに存在している。 ──会いに行く資格なんて、わたしにあるのかな──。  自分がひどく醜いものに思えた。歩く速さが少しずつ遅くなっていく。いつかのコーヒーショップの前で、理香はとうとう足を止めた。  ヘッドライトが連なる、渋滞気味の通り。交差点を挟んだ向かいには、ファッションビルが立っている。自分で引いた境界線。ここから先には二度と足を踏み入れないと決めたはずだった。 ──本当に、この先に行ってもいいの?  信号は青なのに、足を踏み出すことができない。やがて、早く渡れと急かすかのように青信号が点滅をはじめ、赤に変わった。  先に進むことも、引き返すこともできない。どうしたらいいのか分からず、理香は目の前を行き交う車越しに、ただ境界線の先を見つめた。  そして、そこに見覚えのある姿を見つけた。  長谷さんは黒いコートを着て、いつかと同じようにファッションビルの脇に立っていた。遠目にも分かる、きれいな立ち姿。少し疲れたように、ビルの壁に軽く背中を預けている。  理香は、長谷さんの横顔を見つめた。 ──この人が、好きだ──。  愛しいと思う気持ち、そばにいたいと思う気持ちが沸き上がってくる。ほかの感情がまざる余地のない、単純で素直な気持ち。余計なことを考える必要なんてない。今の自分に必要なのは、この気持ちだけなのだと気がついた。  混乱していた頭の中が、静かになっていく。  ずっと、この恋から逃げてきた。遅れてしまったけれど、わたしは、わたしの恋に向き合わないといけない。  そして、この人を一人ぼっちのままにしたくない。そばにいさせてくれるかどうかは分からない。長谷さんの中では終わってしまっているかもしれないけれど、せめて一緒にいたいと伝えたい。  迷いも不安も必要ない。余計なものは全部、この場所に置いていけばいい。  信号が青になった。理香は横断歩道に足を踏み出した。そのまま境界線の向こうへと渡っていく。長谷さんの姿が近づいてくる。その横顔の先には学習塾のドアがある。  この人が、たった一人でこの場所にいなければならないことの理不尽さを思うと、泣きたいような、怒りたいような、上手く説明できない感情が押し寄せてきた。その中には、自分がこれまでに取ってきた行動への後悔も含まれている。  長谷さんは、ただぼんやりと前を見ている。彼の心の中には、中学生に成長したあかねちゃんがいるのかもしれない。あのドアから出てきて自分を見つけ、「お父さん」と笑う女の子が。  理香は、真っすぐに長谷さんのもとへと歩いて行った。長谷さんは周囲にまったく注意を払っていないらしく、近づいていく理香に気づきもしない。すぐそばで立ち止まり横顔を見上げると、ようやく気配を感じたのか、理香の方に目を向けた。 「──理香さん」長谷さんは少しだけ目を見開いて、まるでそこに理香がいることを確かめるかのように名前を呼んだ。「どうしてここに?」 「会いに来ました」  声が震える。理香は長谷さんの目をまっすぐに見た。 ──もう、遅いですか?  心の中で問いかける。理香は、勇気を振り絞り、長谷さんの手に自分の手を伸ばした。指先がひやりとした。 「手、冷たくなってるじゃないですか」  長谷さんが気まずそうな表情になった。ここで何をしていたかは聞かない。だって、聞かなくても、もう知っている。 「いつからここにいたんですか?」  言いながら泣きたくなった。長谷さんがどんなに長い間ここにいたとしても、待っている相手が現れることはない。  理香は、長谷さんの手を取って自分の頬にあてた。ただ労わりたかった。冷たい手を温めようと、手のひらを重ねる。長谷さんは驚いた顔で、されるがままになっている。 「帰りましょう。風邪をひきますよ」  理香は、長谷さんの手を引っ張るようにして歩き出した。  夜の住宅街を無言で歩いた。  ところどころに立っている街灯が、暗い通りに小さな灯りを投げている。長谷さんは、最初のうち戸惑った様子で一歩後ろを歩いていたけれど、途中から理香の隣に並んだ。いったん触れた手は、歩き出してすぐに離れ、今は互いに距離を保っている。  家の前に着いたところで、初めて向かい合った。 「あの」  言いかけた理香の言葉を遮るように、長谷さんは「ありがとう」と短く言ってほほえんだ。いつの間にか、記憶にあるのと同じ、落ち着いた彼に戻っていた。 「心配してくれたんでしょう? 僕が何度も連絡をしてしまったから」 「いいえ、あの」  否定しようとした理香に向かって、長谷さんはふんわり笑った。 「気を遣わないでください。いろいろと本当にすみませんでした。ごめんね、今日だって、こんな風にわざわざ来てくれて」  気を遣ってくれているのは、長谷さんの方だ。この人は、いつも優しい。だから、こんな時にもほほえんでくれる。 「タクシーを呼びますね」  長谷さんは言い、コートのポケットからスマホを取り出した。画面を立ち上げて、指をすべらせる。ここまで無理やりに引っ張ってきたようなものだし、もしかしたら、早く帰ってほしいと思っているのかもしれない。 「だめ──」  思わず口から出た弱々しい声に、長谷さんが手を止めた。  いつかの夜、同じこの場所で、同じような会話を交わしたことを思い出した。あの時に戻れるなら戻りたい。そしてやり直したい。でも、どんなに後悔していても、時間は戻らない。 「わたし──」  理香は言い淀んだ。伝えたいことははっきりしているのに、いざ相手を目の前にすると、何からどう話せばいいのか、最初の言葉がなかなか見つからない。長谷さんは急かすそぶりもなく、少し首をかしげるようにして理香を見つめている。 「すみません、あの、うまくまとまらなくて」 「構いませんよ」長谷さんは穏やかに言って、背後の自宅に目を遣った。「寒くないですか? 中で話しますか?」  言ってしまった後で、長谷さんは自分の発言に戸惑ったように「ごめんね、冗談だから」と言い足した。 「──中に、入れてもらえますか?」 「え?」  理香の言葉に、長谷さんは心底驚いた顔をした。 「話をさせてください」  今さらだと分かっている。でも、理香の顔に必死さが表れていたのかもしれない。長谷さんは「何の」とは聞かずに、黒いバッグのポケットから鍵を取り出した。  あの夜と同じように、家の中は静まり帰っていた。「どうぞ」と促されて靴を脱ぎ、しんと冷たい廊下を歩いて、その先のリビングに足を踏み入れた。  人の温もりが感じられない部屋。どう見ても、この家に家族の匂いはない。ちゃんとこの人とこの家を見ていれば、分かったはずだ。あの夜、ぎりぎりのところで生きてきたこの人にどうして気づけなかったんだろう。  さっきまで降っていた雪はいつの間にかやんで、薄い影が室内を満たしていた。大きく取られた窓の向こうに、あの夜と同じ蒼い月が出ていた。  長谷さんが壁のスイッチに手を伸ばした。理香は、あわてて長谷さんの袖に触れ、「つけないで」と小声で言った。明るい中で向かい合うのが怖かった。 「理香さん」  すぐそばで長谷さんの声が言う。目の前に、黒いコートのボタンがあった。近づき過ぎたことに気がついて、理香はあわてて一歩後ろにさがった。  自宅に上がり込んで、こんな風になれなれしい態度を取って──。嫌がられているんじゃないかと心配で、表情をうかがうと目が合った。長谷さんは、すっと目を逸らした。 「やっぱり、帰った方がいい。話は、いつか別の場所でしましょう」  長谷さんの言葉を、ゆっくりと頭が理解する。拒絶されるかもしれないことは分かっていたつもりだったのに、実際のショックは大きかった。理香は内心の動揺を隠して、懸命にほほえんだ。 「わたし、図々しかったですね。すみませんでした」 「そうじゃない」  理香は、自分の方を見ようとしない長谷さんを見つめた。もうだめだということは分かった。でも “別の場所”で会う機会なんて、きっともうない。今を逃したら、たぶん二度と会えない。  自分の中にある勇気を全部かき集めて、理香はどうにか口にした。 「長い話じゃありません。時間は取らせませんから──」 「帰ってください」  明確な拒絶に心がすくんだ。初めて聞いた強い口調に、涙がこぼれそうになる。長谷さんは息を吐き、「ごめん」と謝った。「僕は、割と、もう、限界で──」  言葉の意味をはかりかねて、理香は目の前にいる相手を見上げた。長谷さんは、目を逸らしたまま、懸命に感情を抑えようとしているように見えた。 「どうして、来たんですか?」 長谷さんは力のない声でつぶやき、「帰ってください」とさっきと同じ台詞を繰り返した。 「でないと、僕はまた勘違いをしてしまう。きっと何度でも、ばかみたいに」  鼓動が速くなった。理香の方こそ勘違いをしているかもしれない。それでも、理香は長谷さんのコートの袖に手を伸ばした。すがるように、端っこをぎゅっと握りしめる。 「会いに来たんです」  ようやく長谷さんと目が合った。いつもは穏やかな目に、不安が揺れている。 「──好きです」  ぽろんと涙が落ちた。長谷さんは身動きをしない。ちゃんと聞こえただろうかと不安になって、理香は、もう一度、今度は少しだけ大きな声で告げた。 「あなたが、好きです」  長谷さんは、ためらうようにゆっくりと片手を上げ、指先で理香の頬をぬぐった。懐かしい、優しい指先が輪郭をなぞる。 「振った相手に同情なんてしなくていい」 「同情じゃありません」  束の間、その先を口にするのを躊躇した。長谷さんの傷に触れてしまうかもしれない。でも、この人といたいなら、避けては通れないことだとも分かっていた。 「ご結婚されていると」頬に触れた手が一瞬びくっとして、それから離れた。「奥さんがいらっしゃると思っていました。わたし達の関係は許されないものだって、ずっと」 ”娘さんの塾の迎え” ”夕飯は家で食べる予定だって──”  フォーラムの夜にボランティアの大学生から聞いた言葉を伝えると、長谷さんの表情が歪んだ。 「でも、それでもいいと思いました。長谷さんに家族を裏切らせることになってもいいって。だって、あなたが好きで──とても好きで、どうしようもなかった。求められて嬉しかった」  全部さらけ出す。 「それなのに、逃げ出したんです。今だって、事情を知った途端にのこのこやって来て。ひどいでしょう? 全部、自分のことばっかりで。わたし──」  理香は自分のつま先を見つめた。とても顔を上げていられなかった。 窓から差し込む月の光が、室内を淡く照らしている。 「僕の家族はね、もう、僕の心の中だけにしかいないんです」暗い部屋の中に、独り言みたいな小さな声が響いた。 「でも、あなたたちの活動を見ていたら、学習会に来ている子どもたちみたいに、本当はあの子もちゃんと生きていて、試験勉強をしたりしてるんじゃないかという気がした。塾に通うとしたらここだったのかな、なんて、駅前の塾まで迎えに行ってみたりして」  にぎやかな街の中で、独りぼっちでビルの壁にもたれていた横顔を思い出す。 「一緒に帰って家で夕飯を食べよう、なんて空想して。もういないのに。ばかみたいでしょう?」  男の人が、こんな風に涙をこぼすのを初めて見た。静かな口調が悲しかった。 「あなたのことは──」長谷さんは言葉をさがすように、ぽつぽつと口にした。「僕は、たぶん会った時から、あなたに惹かれていた。でも、なかなか気持ちの整理がつけられなかった。妻のことも、あなたのことも、どっちも裏切っているような気がして」 「長谷さん──」 「でも、あの夜、あなたが駅の階段を追いかけてきてくれた時、前を向こうと思ったんです。もういない家族に、さよならを言おうと」  理香は、おそるおそる手を伸ばし、長谷さんの髪に触れた。長谷さんが顔を上げる。至近距離で目が合った。 「さよならなんて言わなくていいです。ずっと抱きしめていてあげて──」  理香は、言い聞かせるように口にした。一歩近づいて、長谷さんの身体にそっと腕を回した。こうして触れ合うのは二回目だ。でも、前よりもずっと近くにいるような気がした。 「わたしは、いなくなったりしません」 「え?」 「そばにいていいって言ってください。そしたら、ずっと一緒にいます。絶対、長谷さんを置いていなくなったりしません。だから──」  最後は泣き声になってしまった。  長谷さんが何か言った。よく聞こえなくて聞き直したら腕をつかまれた。優しく、でも強い力で抱きしめられる。同時に、耳もとに唇が触れた。 「そばにいて──」  ささやくような声が、今度はちゃんと耳に届いた。
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