【後日談】月白風清(げっぱくふうせい)

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【後日談】月白風清(げっぱくふうせい)

 夏が終わろうとしている。  令国の都・万保の空には刷毛ではいたような雲が流れ、夕暮れの市場に並ぶ野菜や果物は秋の味覚に変わりつつあった。 「旦那様、これか、これがいいと思うのですが、どうでしょうか?」  店先に下がった提灯を指さし、雹華は横に立つ夫を見上げた。 「俺は別にどれでもいい。あんたが決めろ」  銘軒は面倒くさそうに答え、そして続ける。 「買い物ってこれだったのか。こういうの、わざわざ用意するか?」 「だって、結婚して初めての中秋節ですから……」  雹華ははにかんだ。 「家族で祝うものでしょう?」  一年で最も月が美しく見えるという中秋節に、令国の人々は月を愛でる祭を開く。当日は、家の高いところに提灯を飾るのが習わしだ。  銘軒の家にはそれ用の提灯がないと知った雹華が、今朝の朝食の時に 「夕方、ちょっと買い物に行ってきます」  と言い出した。 「ああ」  銘軒はうなずいたのだが、彼も今日は非番。雹華の侍女の鈴玉が『ご主人様も一緒に行かれますよね!?』と目で圧をかけたのである。  気遣いのできない男・銘軒は、いつも雹華をしょんぼりさせては鈴玉に強く抗議されていたため、しぶしぶ言った。 「……あー、じゃあ、俺も行くか」  雹華が、ふわっ、と嬉しそうな笑顔で「はい」と答えたので、たまにはいいかと思い直した銘軒である。  そうして二人は、夕方の市場に出かけた。  雹華が夕方に買い物に行きたがったのは、灯っている状態の提灯を見たかったから、である。中秋節用の提灯を扱う店では、提灯に火を灯して軒先にずらりとぶら下げていた。  銘軒にどれでもいいと言われた雹華だが、こういうのはどれでもいいというのが一番困る。しかし銘軒は、人に選ばせておいて後から文句を言うほどまでには無神経ではない。  雹華もそれをわかっていたので、結局は自分で決めた。 「じゃあ、こっちの、桔梗の柄にします!」 「おう」  銘軒が金を払い、畳んでもらった提灯を、雹華が持参した布に包んで持つ。 「よし、帰るぞ」 「はい」  まずは青明街という大きな通りに出ようと、二人は細い道を歩いていった。  銘軒は万保で暮らして長く、都歩きに慣れている。一方、雹華は地方の生まれな上、しばらく後宮の中でだけ過ごしていたので、人混みが苦手だ。  細い通りは、坊里の門が閉まる前に帰宅しようと急ぐ人々でごった返していた。  スタスタ歩いていく銘軒は、すぐ後ろを雹華がついてきているものと思っているが、雹華は人を避けるのに必死でどうしても遅れる。  銘軒が雹華から目を離したのは、ほんの少しの間ではあったのだが、二人は見事にはぐれてしまった。  何とかすぐに再会することができ、帰宅したのだが──  中院(なかにわ)に入ったところで、銘軒は不機嫌な顔で振り向いた。 「何でちゃんとついてこないんだよ」  実は、銘軒は愛妻が姿を消して、めちゃくちゃ心配したのである。ようやく見つかってホッとした裏返しで、キツい口調になっている。  しかし、雹華はしゅんとしてしまった。 「申し訳ありません……」  そんな銘軒を睨みながら、近づいてくる人物がいる。  もちろん、鈴玉である。 「旦那様? 今のお話ですが、つまり、雹華様を置いてけぼりになさったということですか?」 「雹華がついてこなかったんだ!」 「雹華様に何かあった時でも、そのようなことをおっしゃれるでしょうか?」  全くひるまない鈴玉を、雹華はあわててなだめる。 「鈴玉、違います、私が悪いのです。旦那様を呼び止めればよかったの」 「何かあった後では呼び止められません!」  なおも言い募ろうとする鈴玉に、銘軒は背を向ける。 「次は気をつけろっ」  彼はさっさと居間に行ってしまった。 「まったくもう」  頬を膨らませた鈴玉が、雹華を見る。  しかし、雹華は微笑んでいた。 「『次は』ですって。また、一緒にお出かけして下さるのね」 「雹華様ってば……」  鈴玉はため息をつくのだった。  中秋節がやってきた。  東外壁に開いた青明門の前は広場になっていて、鐘や太鼓が打ち鳴らされ、龍舞が行われている。布でできた大きな龍が、金の珠を追って踊るようにうねった。金の珠も龍も、下から棒で支えられていて、人間がその棒を持って操るのだ。  広場のぐるりには見物客が溢れ、龍が近くに来るたびに歓声を上げていた。  その人混みの中に、雹華と鈴玉もいた。 「すごい、生きているみたいだわ」 「わ、私、ちょっと恐ろしいです」  雹華と鈴玉は身を寄せ合いながら、龍舞を見物する。  今日は万保の見回りが強化されており、銘軒は青明門の警衛をしているはずだ。彼は衛尉寺少卿という地位にある。 『俺は夕方には交代して、いったん帰る。今日は祭の見物に、近隣の町や村からも大勢入ってきてるから、気をつけろ』  彼にはそう言われていた。 (門前広場を見物します、とはお伝えしておいたけれど、これだけ人がいると一緒に帰るのは無理そう……)  見上げてみれば、西の方の空は茜に染まっている。  今夜は大街(おおどおり)に夜通し灯りが点されるが、毎年酔客が騒ぎを起こすらしく、銘軒には早めに帰るように言われていた。まだ十四歳の鈴玉を遅くまで付き合わせるのも、あまりよろしくない。 「そろそろ帰りましょうか」  鈴玉に話しかけ、見物の輪から抜け出したところで、横からぬっと男が出てきた。 「雹華」 「旦那様!」  銘軒だ。鎧はもう外して、上衣に(ズボン)革靴(ブーツ)といういつもの格好である。 「お仕事はもう、よろしいのですか?」 「ひとまずな。夜中にまた顔を出す。ほら」  布に包まれたものをポンと渡されて、雹華はあわてて受け取った。 「これは?」 「房妃様から、中秋節の祝い菓子を雹華に、だと」  春燕だ。 「嬉しい。家でいただきましょう」 「じゃあ帰るぞ。鈴玉、道はわかってるよな、前を歩け」  銘軒は鈴玉を促して歩き出し──  ──左手で、ひょい、と雹華の右手を握った。 「え」  驚いて見上げると、その様子に銘軒が「あ?」と眉をしかめる。 「何だよ、はぐれないようにしてるんだろ」 「あ、はい」  雹華は小さくうなずいたが、にわかに胸が高鳴り始めた。  男性と手を繋いで人前を歩いたことなど、これまで一度もない。 (べ、別におかしくないですよね、夫婦ですし……そもそも、この人混みでは見えないし……だいたい私たちのことなんて誰も気に留めないでしょうし……ああでもドキドキします)  握り返すのも恥ずかしく、うつむいたまま手をこわばらせていると、手が離れそうになる。  すると銘軒が、しっかりと指を絡めた。 (あっ……どうしよう、ドキドキしすぎて息苦しい……!)  真っ赤な顔で胸を押さえている雹華に、銘軒が気づいた。 「雹華? どうした」 「えっ、大丈夫です、何でも……」 「おい、ふらついてんぞ。鈴玉、ちょっと待て」  結局、雹華は手を繋ぐどころか、抱き寄せられるようにして家に帰った。  中院に入ると、雹華はそっと身体を離しながら謝る。 「すみません、ちょっとあの、手……ドキドキしてしまって」 「あんたな、何でそれくらいでのぼせるんだ。いつも手を繋ぐ以上のことやってんだろうが」  鈴玉の前で無神経に言い放つ銘軒に、雹華はますます真っ赤になった。鈴玉の表情が険しくなる。 「旦……」 「あのっ、旦那様!」  雹華はあわてて、今度は先に正直なところを勢いよく言った。 「手をつないで外を歩くなんて初めてで! 旦那様との『初めて』は、何でもドキドキするんです! 申し訳ありません!」 「うっ」  銘軒は少し怯み、自分の顎をゴシゴシこすり、そしてもう一度雹華を抱き寄せた。 「わかったよ。あーくそっ」  鈴玉は呆れた様子で、 「お食事はできているので、温めなおしてきまーす」  と去っていった。  通いの老人と鈴玉、そして雹華も一緒に作っておいた食事を終えた頃には、日はとっぷりと暮れていた。雹華と銘軒は、二階に上がる。  家の門の側には桔梗の描かれた提灯が下がり、他の家々にも同じように、夜空を邪魔することのない優しい灯りが点々と点っていた。  中院側の格子窓を開け放てば、空にはぽっかりと、美しい月が浮かんでいる。今日はこの月を、大勢の人々が見上げているはずだ。  雹華と銘軒もようやく落ち着いて、並んで座る。  そして、春燕からの心尽くしの月餅と茶、少し酒も嗜みながら、夫婦になって初めての中秋節を楽しんだ。 「月、綺麗ですね」 「…………」 「あの……旦那様? ご覧になってますか?」 「見てる。月も、綺麗だな」
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