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30.水曜日にはもう会わない
「ああ、雅貴さん、間に合ってよかった。西園寺さんったらまだ青い顔してるのにもうお帰りになるって仰って……」
「帰るだって? おい、大丈夫なのか?」
思いっきり顔を覗き込んでくる。
近いよ……。誰の前だと思ってるんだ。
額に手を当てられる。
「熱は無いな。よし、このまま家まで送るから。車まで歩けるか? 背負うか?」
「い、いいよ。タクシーで帰るから。あとこれ、忘れ物届けに来たんだ」
「あ? カフス? こんなもの持ってきて具合悪くなってたら仕方ないだろうが! 来週行くんだから大人しく待っていればいいんだ」
「あ……」
しまった。ここで渡すのはよせばよかった。考えてみたらなんで東郷が僕の部屋にカフスなんか忘れるんだよ。
それに来週行くなんて言って、この男は……。
「と、とにかくもう僕の役目は終わったから、帰ります。ご迷惑おかけしてすみませんでした」
起き上がってベッドを出ようとするが押し止められる。
「おい、そんな具合悪いのに帰せるわけがないだろう! 言うことを聞け」
「君に命令される筋合いは無い」
「なんだと? わざわざ会議を抜けてきてやった人間にその言い草か」
僕は東郷を睨んだ。これ以上麗華の前で揉めたくなかった。それを察したのか、東郷は麗華に外に出るように言った。
「悪いがこいつが言うことを聞かないんでちょっと二人で話したい。出ててくれるか?」
「ええ、勿論よ。私はもうこんな時間だし、ここの用事が済んだら家に戻るわね」
「助かったよ。ありがとう」
「どういたしまして。西園寺さん、元気になったら今度またお花生けにいらしてちょうだい」
「あ……はい……」
「社交辞令じゃないですから。お話ししたいこともあるし」
「わかりました……」
「じゃあ、連絡先は東郷に聞くわね。それじゃ」
麗華は颯爽と去っていった。
「君を拾ったのが麗華で良かったよ。すぐに連絡してくれたから」
「……婚約したんだってね」
「早耳だな。知ってたのか」
「さっき健ちゃんから聞いた。それでたまたま倒れたところを東郷の奥さんに助けられたってわけ」
「おい……拗ねるなよ。言う暇がなかったんだ。勿論お前に真っ先に言うつもりだったさ。記者にすっぱ抜かれたんだ」
「………」
僕はどれだけ思い上がった馬鹿なんだ? なんで拗ねてる?
拗ねる権利なんて欠片もないのに、何様のつもりなんだ。
「今日は具合がよかったから……カフスボタンだけ届けようと思ったんだ」
僕は申し訳なくて俯いた。東郷は無言で僕の手を片方握ってくれた。
それだけでスッと胸が楽になる。
「そしたら建物に入る前に健ちゃんから電話があって……東郷が婚約した記事が出てるって。その記事見たら僕……急に具合悪くなっちゃって……ごめんなさい。来なければよかった――麗華さんにも東郷にも迷惑かけて。ごめんね、仕事わざわざ途中で来てくれたのにさっきあんなこと言って。本当にごめん……」
「気にしてないから、泣くな。俺はお前に泣かれると困るんだよ」
「ごめんね……」
静かに唇が重なった。東郷の温かい手で頭を包まれるのが気持ちよくて、ずっとこうしていたかった。
でももう、こうやって会うこともない。キスが深くなりかけたから僕はそれを止めた。
「ここじゃ嫌か? お前の家に行こうか?」
僕は首を横に振った。
「ううん、タクシーじゃだめなら健ちゃんを呼ぶから」
「なんだって? おい、どういうつもりだ?」
「東郷。これまでのこと感謝してる。でももう会えないよ」
「西園寺……麗華はちゃんとわかってくれるから」
「待ってよ、まさか結婚してもこの関係続けるつもりだったの?」
「だってお前はどうするんだ? 俺が居なくなって」
呆れた――まさかそんなこと考えてたなんて。
「それって麗華さんに失礼だし、僕にも失礼。とにかくもう僕たちは会わない」
立ち上がろうとすると東郷が僕の腕を掴む。
「待てったら。なあ、考え直せよ。こんな身体でどうやって生きていく気だよ?」
「馬鹿にしないで。今までだって東郷無しで生きてきたから」
「西園寺……。俺たち相性良かっただろ? 認めろよ。俺もお前もずっと調子良かったじゃないか。他じゃこうはいかないだろ」
「最低……」
なんてこと言うんだ。ふざけるなよ。
僕は制止を振り切って健斗に電話を掛けた。
迎えを頼んで通話を終えるなり東郷が僕をベッドに押し倒した。
「いたっ。ちょっと乱暴はやめて」
「お前が言うことを聞かないからだ」
「東郷……本気で言ってるの?」
「お前が――」
「んっ!」
いつになく乱暴に口付けをされる。こんな風にされたことなんてないのに――。
「んっんん……はぁ、やめっ――んっ」
押さえつけられている手首が痛い。
嘘でしょう、本気で僕のこと……
「やめて、大声出さないとわからないの?」
「できないだろそんなこと」
そう言って彼は僕の耳を噛んだ。
「東郷痛い、ねえやめて。前に話したことあるでしょう。無理やりされて怖かったって」
彼は僕を押さえつけたまま、黙って首や鎖骨に唇を付けた。
「ねえ、お願い……お願いだから。やめて……」
僕が本気で東郷の腕を逃れようともがくと、彼は苦々しげに吐き捨てた。
「なんでだよ――くそ!」
「うう……こんなの……手が痛いよ……」
怖くて、握りしめられた手首が痛くて僕は涙を流した。
「泣くなよ……ごめん。俺が悪かった。ごめん、西園寺。俺が悪かった……」
「ひっく…うぅ……っ」
「ごめん……」
東郷は僕を抱きしめた。
もう訳がわからない。僕が悪いの?
せっかく安定していたのに、まためちゃくちゃに戻ってしまった。
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