一  章

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 人気の西洋料理店「五河屋(ごかわや)」は喧噪で溢れている。座敷に長テーブルがいくつも並べられた、そのほとんどの席は客で埋まっていた。何とか席を見つけて席を確保し、風切はローストビーフ、志波はシチューを注文する。  料理が運ばれてきて、暫くした時、風切は入口に付近の階段を降りてくる、白地モスリンの単衣(ひとえ)藤色(ふじいろ)羽二重(はぶたえ)(おび)を締めた女に目を留めた。氷川月子だった。月子の前を歩く長身の男は、黒髪に背広、シャツにタイ、ズボンを身に着けている。凛とした端正な横顔に目を凝らした。 「見たことあるな……」 「鷹司家の息子や」  言った志波を見る。 「貸金業のか」  そうや、と頷く。 「へえ。氷川に目をつけるとは、意外だな」 「氷川って?」 「生徒なんだが、他の学生と少し違って、どうも日本人ぽくないと言うか、何と言うか……」  志波も興味津々に月子を窺う。すると、月子の視線がこちらに向いた。驚いて、二人は思わず固まる。月子は風切に気づき、小さくお辞儀をして立ち去った。 「びっくりしたー……」 「だな」と風切も頷く。 「どういう子やねん」 「話したことはないが、妙に静かな子だ。たぶん二十歳超えてるな」 「ん?あそこって、二十歳以下やないと入れたらあかんのやなかった?」 「ああ。大方誰かの口利きがあったんだろ」 「鷹司とも仲ええみたいやしな」  志波はスプーンでシチューを口に運ぶ。 「お、うまっ。やるやん、ここ」 「それで、話は。どうせ田村屋のことだろ」  ローストビーフを口に運びながら言う。志波は、ああ、と頬杖をつき、 「聞きたいか?」  と、にやにやする。風切は片眉を上げ、 「いや、別に?」と返す。 「嘘つけ。俺から色々聞いて、アメリカに手紙書いてるくせに」 「仕方ないだろ。その条件を呑まなきゃ、アメリカから日本への渡航費と、日本での滞在費を出してもらえねぇんだから」 「出帆、お前、その情報がどう使われてるか知ってんのか」  風切は志波を一瞥する。 「俺は、ただ手紙を書いているだけだ。それが、どう作用するかまでは責任持てねぇよ。———まあ本音を言えば、気にしてない。日本にいた時は、この髪と顔のせいで、随分嫌な思いしたからな。留学してからの方が良かった。アメリカでの生活の方が合ってたし、いい思いもしたしな」  志波は「そうか」とだけ言った。 「で、話さないのか?」 「俺の勘定持ってくれたら、話すわ」  風切は白けた顔をする。 「お前、財布持って来てないのか」 「いや、あるで。中身はないけどな」  懐から財布を出して、ひらひらと振って見せる。 「お前、最初からそのつもりだったな?」 「金ないねん。頼むわ」 「それで五河屋か。相変わらず図太い奴だな」 「いつかまとめて返すから」 「分かった、分かった。それで?」 「正夫の嫁が言うにはな、正夫は九時頃、女に逢いに出かけたんやと。それきり明け方まで帰って来んかったらしいわ」 「一緒に出掛けたわけじゃないんだろ?」 「そやな」 「なら、女に逢いに行ったかどうかは分からないよな」 「えらい身だしなみ気にしとったから、絶対そうや言うてたわ。女に逢う時はいつもそうやねんて。というか、あんな男のどこがええねん」 「もしかすると、殺したのは嫉妬に狂った嫁なんじゃねぇの」  志波は手を振る。 「あの嫁じゃ、袈裟斬りの一太刀なんて無理や」 「お前、会いに行ったのか。一応、記者だったんだな」 「毎日、女の子にキャーキャー言われてるお前とは違うねん。———嫁は、刀も握ったことなさそうな若い女やったわ」 「前妻の娘なんだろ」 「なんや、お前もゲスな話好きやったんか。言えよ。いくらでも教えたるから」 「そうじゃねぇよ。同僚が言ってただけだ」  にやにやしながら志波は話を続ける。 「お前の言う通り、前妻の娘や。でもって、母親……、つまり前妻な、そいつも同じ屋根の下に住んでるらしいわ」  風切は呆れ顔でやれやれと首を振る。 「そんな状況の中、正夫は更に他の女に目をつけたっちゅうわけや」  風切は志波が喋っている間に注文した酒を口に運ぶ。 「前妻が正夫を殺してもおかしくなさそうだな」 「ああ。だがその晩、娘と母親は一緒にいたらしい。二人が一緒にいるのを家の人間も見てるしな」 「嫁の言う通り、正夫が女に逢いに行ったとして、そうなると殺したのも女ってことか?」 「いや、それはな……」  突然、言葉を切った志波。風切は怪訝そうにする。 「どうした?」 「いや……、なんか引っかかってな……。なんやったかな……」 「金を持ってこなかったことか」 「ちゃうわ、ボケ」と志波は悪態を返した。
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