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 フィニッシュ・ラインまで残り5㎞を切った。  天気は快晴。気温28度。湿度27%。  陰鬱な冬真っ直中のヨーロッパとは正反対の季節がここにはある。陽光にきらめく南太平洋の潮風を頬に受けながら、どこまでも平坦でまっすぐ延びる舗装路を自転車で走っていると、一瞬、今、自分がどこにいるのかわからなくなった。  なにせこのアデレードの街で自転車レースが行われる一週間前まで、レム・ヤンセンは故郷のオランダで氷点下に凍える石畳の上を走っていたのだから。気温差にして約30度。よくもまあ体を壊さないものだと、我ながら自分の頑丈にできた体に感心する。  チームメイトで、オランダよりさらに極寒の地ノルウェーからアデレード入りしたチームメイトは、こっちに来たとたん風邪をひいたとぼやいていた。タンクトップ一枚でも過ごせる真夏の国で、いかにも北欧系のがっしりとした大男が鼻をグズグズさせている光景というのは、なかなかおかしい。  自チームのエースを誰よりも速くゴールに届けようと、海水魚の群れのように固まって走っていた自転車集団の中で、激しい位置獲り争いが起こる。体ごとぶつける勢いでライバルチームの進路を妨害してくるのは、いつものごとくブルージャージのベルギーチームだ。強靱な脚を備えたアシストたちが整然と隊列を組み、敵を蹴散らしながら自分たちのエースを牽くさまは、よく訓練された軍隊に喩えられる。  彼らの王である男は、ウェールズ訛りがきつい赤ら顔の若者だ。童顔でどちらかといえば小柄な部類だが、筋肉をみっしりとまとった鎧のような体から繰り出される爆発的なスプリントは、『現役最強スプリンター』の称号を欲しいままにしている。
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